日刊28000号の旅〈3〉日航機墜落…どの社にもあった「クライマーズ・ハイ」

日刊スポーツは1946年(昭21)3月6日に第1号を発刊してから、これまで約2万8000号もの新聞を発行しています。昭和、平成、そして令和と、それぞれの時代を数多くの記事や写真、そして見出しで報じてきました。日刊スポーツプレミアムでは「日刊スポーツ28000号の旅 ~新聞78年分全部読んでみた~」と題し、日刊スポーツが報じてきたさまざまな出来事を、ベテラン記者の解説とともにリバイバルします。

第3回は、38年前の1985年8月12日に起きた日航機墜落事故。(内容は当時の報道に基づいています。紙面は東京本社最終版)

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85年8月12日、詰め掛けた報道陣の前で、墜落事故について情報を確認する日本航空の職員

85年8月12日、詰め掛けた報道陣の前で、墜落事故について情報を確認する日本航空の職員

1985年8月12日、羽田発大阪行
御巣鷹の尾根に墜落

お盆が近づくとあの日を思い出す。

38年前。私は大学3年生だった。九州の大分に帰省するため、8月12日は朝から羽田空港にいた。予約はしていなかった。お盆ということもあって全便満席だったが、早い時間からキャンセル待ちすれば乗れるだろうと踏んでいた。

しかし、なかなか座席が回ってこない。午後になって航空会社の地上係員から「大阪経由ならば乗れるかもしれない」と言われた。

行けるところまで行こうと思った私は「大阪経由でもいいですよ」と返答した。午後4時ごろだっただろうか。大分行きに空きが出て、直行便に乗ることができた。

大分空港からバスを乗り継いで、実家のある別府に帰り着いたのが午後8時前。「ただいま」と言って、家の中に入っていくと、母親が青ざめた表情で立っていた。

「良かった」

「何が?」

「ニュース見てないの?」

「何の?」

「飛行機が落ちたのよ」

「えっ!」

慌てて茶の間に行くと、テレビが臨時ニュースを伝えている。そこで初めて、日航機の事故を知った。インターネットもスマホもない時代。体が震えた。

1985年8月12日、羽田発大阪行の日航機123便が、群馬、長野、埼玉の県境に近い、御巣鷹山南東部の斜面(御巣鷹の尾根)に墜落した。死者520人(生存者4人)の大惨事だった。

事故一報からテレビ各局は特別報道態勢を敷いた。生存者のひとり、12歳の少女が自衛隊のヘリコプターで救助される際の映像は、私の記憶に鮮明に残っている。一般紙も連日、事故原因などを大きく報道し、実家でとっていた朝日新聞を食い入るように読んだ。ただ、当時の私はスポーツ新聞を日常的に読む習慣がなく、日刊スポーツがどのように報じていたのか知らない。あらためて、過去の紙面をじっくり読んだ。

事故を報じる8月13日付の日刊スポーツ

8月13日付の1面

8月13日付の1面

8月13日付の2面

8月13日付の2面

8月13日付の3面

8月13日付の3面

本紙記者2人とカメラマンも急行
山道約3時間半かけ墜落現場へ

事故翌日、8月13日付の日刊スポーツは、1面から3面を使って報道。歌手の坂本九さん、プロ野球阪神の球団社長、大相撲伊勢ケ浜親方(当時)の家族らが搭乗していたことを大きく報じている。スポーツ、芸能などの著名人にフォーカスした紙面は、一般紙とはかなり違う。

14日以降も連日大きく報道していくのだが、目にとまったのは15日の紙面に小さく掲載されていた記事だった。

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1988年入社。プロ野球を中心に取材し、東京時代の日本ハム、最後の横浜大洋(現DeNA)、長嶋巨人を担当。今年4月、20年ぶりに現場記者に戻り、野球に限らず幅広く取材中。