競輪、楽しんでいますか?

東日本大震災から10年となった11日、各競輪場で黙とうが行われた。新型コロナの関係で無観客だった京王閣でも午後2時46分、選手、関係者がそれぞれの場所で犠牲者の冥福を祈った。

3月11日に黙とうする石川恭規(右)。左はS級優勝した同県の渡辺一成
3月11日に黙とうする石川恭規(右)。左はS級優勝した同県の渡辺一成

当日、同じ福島の渡辺一成とともに目を閉じた石川恭規(43)の胸には、もう1つの鎮魂の気持ちがあった。この開催の直前に父を亡くしたのだ。「複雑な家庭で、僕は実の父と育ての父がいるんです。実の父は既に亡くなっているのですが、先日、育ての父が前立腺がんで亡くなりまして。競輪が大好きで、選手になることを勧めてくれたのもその父でした」。

悲しみを乗り越えて頑張る石川恭規
悲しみを乗り越えて頑張る石川恭規

石川は競輪学校(現養成所)受験の年齢制限が撤廃された初年度の93期生。高校卒業後、通信会社、運転代行、リハビリ助手、車のディーラー、住宅メーカー、生命保険会社など多くの職業を渡り歩き、1000万円近い年収を得た時期もあったという。だが入学条件の変更を聞き、父の期待がよみがえる。一念発起し、適性受験で競輪選手の道に進んだ。

「父の影響で20歳ぐらいの時に自転車に乗り始め、仕事をしながら3回受験しましたが不合格。年齢制限があったので選手は諦めるしかありませんでした。それが運命の巡り合わせで…父の夢をかなえられて良かった」と言う。

いわゆる「オールドルーキー」で、デビュー時は30歳。石川の一番のアドバイザーだった父は一番のファンとなり、数年前に京王閣で落車、骨折した時は、遠く茨城・日立市から車で迎えに来てくれたりなど、長い間、心身の大きな支えとなってくれた。

その父がガンに冒された。「ステージ4でした。本当は“ありがとう”と言いたかったんです。でも本人は病状を知らない。言えば命が短いことが分かってしまう。結局、最後まで言えませんでした。悔いが残っています」。

今、石川はこう思っている。「レースで走れることがいかに幸せか。毎レース、感謝の気持ちを込めて走りたい。家族や応援してくれる人に、頑張っている姿をもっと見せなくてはいけない。いつも競輪場で話しかけてくれる記者さんたちにも感謝です」。

区切りの通算100勝まであと1つと迫っている。その勝利は天国の父にささげる。「今まで本当にありがとう」の言葉とともに。【栗田文人】