全国実業団対抗女子駅伝予選会(福岡)で、岩谷産業の第2区・飯田怜(19)が残り約200メートルで走ることができなくなり、四つんばいでたすきを渡したことについて、広瀬永和監督(53)は、レースから一夜明けた22日、大会主催者側に「(レースを)やめてくれ」と伝えていたことを明かした。

広瀬監督は過去、選手を守るために、レースを止めたことがある。13年8月10日、世界選手権モスクワ大会の女子マラソン。29キロ地点で「ふらふらになって、これはだめだ。まず止めなきゃと思った」と、レースを止めた相手は、04年アテネ五輪金メダル野口みずき(16年に現役引退)だ。

そのレースは、野口がアテネ以降の長い苦闘を乗り越えて、03年パリ大会以来、10年ぶりにたどり着いた世界選手権だった。しかし猛暑のレースで、脱水症状に陥った。立ち止まっては走り、走っては立ち止まる…。もうろうとする意識の中で両拳で太ももをたたいて、必死に前に進もうとした壮絶なシーンだった。ライブ映像で見た広瀬監督は、日本陸連宗猛マラソン部長(当時)に「止めてくれ」と電話で叫んだ。それは野口にとって初めての途中棄権、広瀬監督にとっても、初めてランナーを止めた瞬間だった。

広瀬監督はポリシーがある。選手が練習で走る時、自転車で伴走する。「必ず練習には出たい、走りを見たい。どんな時でも。そこからしか何も出てこない」。車に乗って選手の横につく指導者が多い中で、広瀬監督はずっと選手に寄り添ってきた。全盛期の野口が走った月間1350キロは、そのまま広瀬監督が自転車で走った距離でもある。

苦境が続いていた野口にとって、広瀬監督の「お前の最後を見届けるまで、おれは絶対に辞めない」という言葉は支えだった。16年3月の名古屋ウィメンズが現役最後のレースとなった野口は「その言葉がうれしくて、支えになって」と最後の力を振り絞って、完全燃焼で引退した。

広瀬監督は、20年近く指導してきた野口の引退を見届けて、17年4月に新設された岩谷産業陸上部の初代監督に就任した。現場主義を貫き、選手と寄り添う同監督は、飯田の姿を見て「あの状況を見たら、どの指導者でも止める」と言った。その意図がスムーズに伝わらなかったとすれば、大会主催者側は運営方法を見直す必要があるだろう。