「育成の巨人」と呼ばれ始めた2000年代後半。支配下登録へ、あと1歩まで近づきながら、4度のケガに泣き、ユニホームに別れを告げた選手がいる。07年育成ドラフト1位で入団し、11年限りで引退した籾山幸徳さん(36)は現在、主に生命保険などを取り扱う「NoriSuke」で社長を務め、自ら全国を駆け回る。引退後、ジャイアンツアカデミーコーチに就任し、14年7月にはプルデンシャル生命保険株式会社に転職。チャレンジを続ける根底にあるのは、野球への思いとたくさんの人との出会いだった。

監督を務める高槻中央ボーイズの選手にノックする元巨人の籾山さん(本人提供)
監督を務める高槻中央ボーイズの選手にノックする元巨人の籾山さん(本人提供)

白球を追いかけ、仲間と喜びを分かち合いながら、野球に夢中になった日々を過ごした少年時代。大人になった今も、変わらぬ情熱を持ち続けている人は多いのではないだろうか。

籾山さんもまた、野球を愛し、今もなお白球へのいちずな思いを抱く。ともに主将を務めた天理高、立命大では強打の内野手として、主軸を任され、07年の育成ドラフト1位で巨人に入団。高校、大学では日本一を、プロでは支配下を目指し、泥にまみれた。

「小学生の頃に見た甲子園に憧れ、夢を持った。たくさんの悔し涙とめったに流すことのないうれし涙を流した。目標までのプロセスから結果、次への課題、プロセスを経て、また結果…。ほとんどが野球から学んだことで、そのメンタリティーやマインドは今も生きています」

現役引退から10年、現在は「NoriSuke」を起業。主に生命保険などを取り扱いながら、社長自ら営業に回り、1人で全ての業務をこなす。

07年の新入団発表会見で清武球団代表、原監督(中央左から)と記念撮影に臨む籾山さん(後列左)前列左から加治前竜一、古川祐樹、村田透、藤村大介、中井大介、竹嶋祐貴、後列左から籾山幸徳、西村優希、谷内田敦士
07年の新入団発表会見で清武球団代表、原監督(中央左から)と記念撮影に臨む籾山さん(後列左)前列左から加治前竜一、古川祐樹、村田透、藤村大介、中井大介、竹嶋祐貴、後列左から籾山幸徳、西村優希、谷内田敦士
イースタンリーグでプレーする籾山幸徳=2011年3月
イースタンリーグでプレーする籾山幸徳=2011年3月

4度のケガに泣き

現役時代は4度のケガに泣き、志半ばでユニホームを脱いだ。1年目の春季キャンプ中に右肩の血行障害。2年目は6月のイースタン・リーグの守備で左手中指を骨折し、8月には死球で右手の尺骨を骨折した。少ないチャンスながら、4月までに2本塁打を放ち、夢の支配下登録が見え始めた時に不運に襲われた。

「『もうちょっとやぞ』と周りからも言われて、チャンスやなと思った時にケガをして。でも、今思えば、うまくいきすぎてたというか、いってこいやったんかなと。ケガがなければ、というのは言い訳だし、そういう思いはないです」

引退を決断したのも、ケガだった。4年目の11年7月の試合で死球を受け、左手小指を骨折。「89%くらい、今年でクビだと覚悟した」。リハビリを経て、シーズン終盤に実戦復帰。10月16日、現役最後の試合となるプロアマ交流戦の佐久コスモスターズ戦を迎えた。試合前夜、母久美子さんに1本の電話をかけた。

「オレの最後の試合になるかもしれへんから、もし来れるんやったら、見に来てや」

「何でそんなこと言うねん」と涙声で返された。「やってるオレが一番わかるねん」と静かに言った。母は大阪から深夜に車を走らせ、川崎市のジャイアンツ球場に駆けつけてくれた。「最後、何とかいいところを見せたろう」と誓った7回の最終打席。フルスイングで、左翼にアーチをかけた。

現役時代の籾山さんの打撃フォーム=2009年5月
現役時代の籾山さんの打撃フォーム=2009年5月

アカデミーコーチで指導者の道へ

「1軍で活躍する姿は見せられなかったですけど、自分なりの恩返しができたかなと。ずっと一番近くで応援してくれたのが母親。最後の1本を見せられたのは良かったです」

半月後の11月1日、戦力外通告を受け、背番号3ケタを背負った4年のプロ野球人生が幕を閉じた。

12年1月、球団からオファーを受けたジャイアンツアカデミーコーチに就任した。午前中はデスク業務、午後はスクールの子供たちを指導。12月にはジャイアンツジュニアのコーチとして、12球団ジュニアトーナメントに参加した。当時、ドラゴンズジュニアにいたのが、根尾昂(中日)だった。

「根尾君は、あの時からすごかったですね。教え子でプロに行った子はいないですけど、甲子園には何人も出ています。ヤフーニュースとかにも出てて、『おー、あの子や』って。そういう喜びはあります」

アカデミーでの指導も1年半が経過したころ、新たに立ち上げるフランチャイズスクールのマネジャー就任の打診を受けた。迷ったが、指名されたことを意気に感じ、引き受けた。

生命保険のライフプランナーに

子供たちの笑顔、成長する姿に喜びを感じた。ただ、野球以外の世界に興味を持ち始めていたのも、事実だった。11年7月に誕生した息子の父親として、どうあるべきか。将来を真剣に考え始めた時、プルデンシャル生命保険からライフプランナーとして、ヘッドハンティングされた。

「新たなことにチャレンジしたいなと。頑張ったら頑張った分だけの評価を受けるし、やらなかったら、それなりの評価。選手の時もそうでしたけど、能力に応じて、昇給があって、その制度に魅力を感じた」

14年6月末で退社し、7月にプルデンシャル生命保険に入社した。もともとは人見知りで、引退を決めた時は「将来的に営業の仕事をするなんて、全く想像もしてなかった」。不安は的中し、研修中からコミュニケーションの壁に直面。言葉が出ず、不安と焦りばかりが募った。

「どうしたら、いいんやろ…」。思い悩んだ時、手を差し伸べてくれたのが、同社へと誘ってくれた会社の先輩だった。中華を食べながら、自身の思いを吐露。じっくりと話を聞いてもらって、優しく背中を押されると涙がボロボロとほおを伝った。

弱い心と向き合いながら、苦手克服に励んだ。鏡の前に立ち、「ちゃんと笑えてるかな?」と表情チェック。普段からトークの練習を重ね、スキルを磨いた。人脈を生かし、たくさんの人と会った。話も聞いてもらえず、門前払いされたこともあったが、野球で培った忍耐力が支えだった。

「野球でも、トライ&エラーの繰り返しだったので、取り組み方や考え方は営業の世界でも同じやなと。どうすれば、自分の思いが伝わるかを考え、実践し、たくさんの方にお会いする中で変わっていけた」

積み重ねた経験は、いつしか結果へと結び付いた。人見知りで、会話が苦手だった研修期間から見違えるように成長。1人1人に寄り添いながら、顧客に合ったベストなプランは何か。日々追求する中、1年目に年間の社内成績で表彰を受けた。年収は選手時代の270万円から約4倍に上がった。

監督を務める高槻中央ボーイズの選手に守備を教える元巨人の籾山さん(本人提供)
監督を務める高槻中央ボーイズの選手に守備を教える元巨人の籾山さん(本人提供)

2年、3年と年月はあっという間に過ぎた。仕事にも慣れ、充実した毎日だったが、ふとした時に野球のことを考える自分に気づいた。「仕事以外のところにも、何か時間を持っていけたらいいなぁ」。漠然と思い始めたころ、中学のボーイズリーグに所属する「高槻中央ボーイズ」の関係者から監督就任の打診を受けた。沸き上がる思いに、即答した。

主に土日祝日はグラウンドに立ち、中学生を指導。平日の2日間は、ビルの1フロアを改装した練習場を使用した野球塾で子供たちに野球を教える。野球を通じ、縁はつながり、今春、巨人時代の1学年下の山本和作氏が監督を務める大経大に教え子が入部した。

「人との出会いや縁は大事だなと。本当にいろんな縦と横のつながりがあります。それは、野球を長く続けた強みなのかなと」

昨年6月には、巨人のOBスカウトに就任した。各地区を担当するスカウトに、小学生や中学生などの有望選手の情報などを提供する。1度はプロ野球の世界から離れたが、野球が古巣との縁をつないだ。

籾山さんは今、未来の野球人を発掘、育成しながら、仕事では日々挑戦を続ける。独立したのも、自らが描いた思いをかなえるため。プルデンシャル生命保険での業務を通じ、多くの人と関係を築いていく中で、夢が大きく広がった。

「2年、3年とやっていく中で、保険だけじゃなくて、違う形でもお役に立ちたいなと思ったんです。実家が薬局だったこともあって、医療のコンサルティングにも興味があったので、いろんなことを組み合わせられたら、もっと幅も広がるんじゃないかなと」。

コロナ禍で対面の機会減っても

野球人生も、常に変化や進化を目指しながら、さらなる高みを追い求めた。プロ野球も、会社経営も当然、結果が求められる世界。数字が悪ければ、淘汰(とうた)されるのは承知の上で、たった1人でチャレンジする道を選んだ。

「『1人で大変ですね』とか言われるんですけど、やりがいの方が大きいです。やればやるだけ自分にはね返ってくる。良くも悪くも、全てが自己責任。やるしかないですし、『やってやろう』という気持ちしかないです」

起業とほぼ同時に、新型コロナウイルスが感染拡大した。業務に関わる影響で言えば、人と対面する機会は少し減った。1人の時間が増える分、孤独や不安を感じることはないのだろうか。

「孤独と言えば孤独なんですけど、いろんな人が助けてくれます。仕事がないなら、探すしかないですし、そうならないようにしていこうって、生命力みたいなのは養われるのかなと思います」

今の夢は-。「一生、人とは強く関わっていきたいなと思っています。例えば、会社で人を雇って、その人の人生が豊かになるように頑張るのも1つ。たくさんの人に助けてもらいましたし、その恩返しができればと思っています」。

大好きな野球で道を切り開き、今は野球で培った気力、体力、人間力が社会を生き抜く武器となる。「選手の時も今も、思うことは1つです。やるしかないんです」。失敗や変化を恐れず、セカンドキャリアをまい進する。「やっぱり、家族には感謝の気持ちしかないです」。籾山さんの心を支えているのは、大好きな「野球」と「人」だった。【久保賢吾】

「NoriSuke」で社長を務める元巨人の籾山さん(撮影・久保賢吾)
「NoriSuke」で社長を務める元巨人の籾山さん(撮影・久保賢吾)

◆籾山幸徳(もみやま・ゆきのり)1985年(昭60)4月10日、大阪・八尾市生まれ。天理(奈良)では3年夏に主将で甲子園に出場。立命館大では1年春からベンチ入りし、主将を務めた4年秋にはベストナインに選ばれた。07年育成ドラフト1位で巨人に入団。4年間プレーし、11年シーズン限りで現役を引退した。引退後はジャイアンツアカデミーコーチに就任し、14年7月にプルデンシャル生命保険株式会社に入社。19年末に退社し、「NoriSuke」を起業した。現在は高槻中央ボーイズで監督を務め、中学生を指導する。家族は夫人と1男。現役時代は179センチ、80キロ。右投げ右打ち。