「あれ以上悲しいことないなって思っているんです、いまだに。あれ以上苦しいことも、悲しいことも、不便なこともない」。今年8月。羽生は東日本大震災を、そう振り返った。6年がたつ今も、胸には当時の記憶が重く残る。

 11年3月11日午後2時46分。羽生は拠点のアイスリンク仙台で練習していた。突然、足元の氷が大きく揺れる。リンクサイドの壁が大きな音を立ててはがれ落ちる。四つんばいでリンクから上がり、半袖のまま、雪の降る外へと飛び出した。

 そこから4日間は、家族とともに避難所で過ごした。畳1畳に4人で毛布1枚の生活。「生活でいっぱいなのに、なんでスケート…。やめようかな」とまで思った。だが、震災から10日後、練習を再開した。4月9日に神戸で予定されていた震災のチャリティーショーに出演オファーが届いたからだった。スケートへの情熱がわき起こった。都築章一郎元コーチのいる東神奈川や、青森県八戸のリンクなど全国を転々としながら、感覚を取り戻した。

 神戸のショーでは「とにかく滑りたい。この思いをぶつけたかった」と前シーズンのショートプログラム(SP)「白鳥の湖」を、思いを込めて披露した。その夏は60公演ものアイスショーに出演。練習リンクを失った羽生にとって貴重な練習の場となった。

 その頃、仙台ではリンクの復旧が進められていた。震災直後から、施設の管理会社に羽生への応援の手紙、問い合わせが殺到。宮城県もすぐに復旧への協力を約束した。当時の支配人、新井照生(53)は「ただのレジャー施設だったら、またすぐに復活とはならなかった。羽生くんが、いたからです」と回想する。建物は壊れたが、幸い心臓部である冷凍機は無事だった。氷を一から張り直し、震災から4カ月後の7月24日に再オープンした。

 その少し前、羽生も戻ってきた。正規の大きさより縦横4メートルずつ足りない、26メートル×56メートルの小ぶりなリンク。慣れ親しんだ場所を確かめるように、ジャンプもせずに、しばらくしみじみとまわり続けた。この大好きな場所を離れる時が、近づいていた。(敬称略=つづく)【高場泉穂】

<2011年(平23)>

3月11日 東日本大震災

4月 神戸の震災チャリティーショーに出演

7月 拠点のアイスリンク仙台が再オープン