「ママはね、サンクスツアーに出てるんだよ」
6歳の次女は、母も9歳から通った東京・東大和のスケートリンクで自慢げにこそっと教えてくれた。リンクの上ではコーチと生徒。でも、アイスショーでの誇らしい姿が、娘に少しだけその関係を忘れさせていた。母の名前は林渚、32歳の「プロフィギュアスケーター」。
フィギュアスケートにはアマチュアとプロがあります。五輪で注目されるのはアマ。では、プロはどんな日常を過ごし、どんなキャリアを積んできているのか。特に日本では現役引退後の情報が少ないと感じていました。林さんに、その世界を聞きました。
林はいま、アイスショー「浅田真央サンクスツアー」の千秋楽(4月、横浜アリーナ)に向けた日々を過ごす。「本当に移動だらけですね」と、車のハンドルを握る毎日を送ってきたこの3年間を回想する。自宅のある千葉、実家もありスケートセンターで指導も行う東大和、そして主なツアーの練習拠点がある埼玉県のトライアングル。深夜練習のために8歳の長女と6歳の次女を1時間半かけて実家に預けてから埼玉に走らせることもしばしば。18年のツアー開始からメンバーとして参加し、200回に迫るショーを全国で届けてきた。
浅田の現役時代のプログラムを再解釈し、10人のメンバーで作り上げる約80分のショーではいま、08-09年シーズンにエキシビションで使用したタンゴ曲「ポル・ウナ・カベサ」のソロ出演も任される。
「真央ちゃんからは『なぎちゃんは人生経験が豊富だから、ヒュンヒュン、グイグイやっちゃって』と言われるんです(笑い)」と独特の言い回しでの信頼を受け止める。
人生経験、その中には当然“現役時代”もあった。
■白いリンクにあこがれて
9歳だった。その直前、98年長野五輪、女子ショートプログラムを会場のビッグハットで観戦する機会に恵まれた。スポーツ歴なし、観戦歴なしの少女は、年が近い15歳のタラ・リピンスキー(米国)が演技を終えて大きなガッツポーズをする姿に心を射抜かれた。
「リンクが白くてきれいだな、囲まれている中で1人注目される、そういうのを見たことなく、憧れました。出ている選手、みんなキラキラしてました」
純粋な憧れが初のリンクに誘うまで時間はかからず、実家の近くの東伏見スケートセンターへ。
「膝と足首が曲がらなく、ペンギンみたいにヨチヨチしてて終わりました。イメージしていたのと違い、全然滑れないなと」
ただ、楽しさがあった。本格的な指導を受けるために東大和に通い出すと、地道な努力の積み重ねで、少しずつジャンプなどを得ていった。ノービス、ジュニアと全国大会に進出。小5の時には長野県野辺山で開かれた有望新人合宿にも呼ばれ、04年にはジュニアグランプリシリーズで日本代表として国際舞台も踏んだ。ペンギンは軽やかに飛び回った。
「中学高校までは楽しいしかなかった。シニアに上がる前までは…」
高2を過ぎると苦悩が交じり始める。女子選手は誰もが通る体形変化での感覚の誤差。「中学の方がうまかったな」という実感がたびたび心を押しつぶしていった。体調の変化で練習時間も凹凸ができる。10代前半のように常に6時間滑り続けることは難しくなっていった。楽しいだけでは過ごせない毎日があった。
「ただ、全日本選手権に出るということだけは押さえていたかった」
全日本に出場するには前年3位までの選手以外は予選を勝ち抜いていく。国内の裾野は広く、テレビ局の電波にのる年末の舞台にたどり着くまでにあまた「敗者」がいる。
高3では競技費用を稼ぐためのアルバイト、大学受験のための塾も掛け持ちし、練習時間も捻出。いまでも当時の生活の多忙さを駆け抜けたのはなぜだろうと首をかしげる。大学は早大に進んだ。
全日本には初出場の高2から毎年予選を勝ち抜いた。ただ、1つの限界を痛感したのも、その舞台だった。大学2年、3年連続3度目の舞台。ショートプログラムもフリーもミスなく終える会心の出来の結果は15位。16位、23位ときての自己最高位だったが…。
「その前の練習もすごく管理して、いろいろ頑張ってこれ以上できないと臨んだ。そこで燃え尽き症候群が起きて、『これ以上はなあ…』と。もっと頑張っている人がこんなにいるんだと。この先、選手としてやりたくないという気持ちが出てきました」
競技者の寿命は短い。大学生でベテランの域に入る。同世代には就職活動を考える仲間も増えてくる。
東大和で指導を受けてきた道家コーチに、引退の意思を示した。すると、ひと言、帰ってきた。
「辞めてもいいけど、教えるのを手伝ってほしい」
そこが1つの転機。そして、もう1つの大きな転機もやってきた。
■ショーという別世界に
全日本などでの演技を見た関係者からアイスショーのオファーが届いたのも、その時期に重なった。出演場所は東京の中心部、赤坂のTBS前に冬季だけ造られる屋外スケートリンク。そこでショーの出演を打診された。それが後に演出、振り付けも任されることになるプロスケーターの“デビュー戦”になった。
別世界だった。氷の上をスケート靴を履いて滑る。やることは同じでも、競技とショーとでは大きな違いがあった。
「お客さんの反応が何より大事。選ぶ曲、反応いいものというのはやってみないとわからないですが、選手の時とは違う。ボーカルが入ってない曲をただ競技会のように滑っても、ショー映えはしないんです。それよりは例えば、みんなが知ってる映画の主人公のような雰囲気にして、滑るより演じるようにしたほうが、オファーしてくれた人も喜ぶし、お客さんの反応もいい」
点数に換算される要素があるわけではない。競技にも曲の理解などの演技構成点で表現面の評価はあるが、まるで別次元。何より、ショーを見に来てくれる人には、たまたまそこに居合わせた人もいた。ジャンプの種類が焦点ではない。ダンスや見せ方、そこが肝心。
「現役の時は計算しながら滑っているんですよ、『ここでジャンプのコンビネーションが入らなかったから、ここで入れなきゃ』とか。うまくいく試合は割と拍手が聞こえたり、声援を聞き取れますが、失敗しているときは聞こえない。反対に、ショーに関しては反応しかみていないです」
複数人で滑る振り付けに始まり、曲選びもボーカル入りの選択肢が広がり、衣装も考える。ショーが盛んな欧米に学びに出向くこともあった。
「選手の時には余裕がなくて、感じられなかった喜びがありました」
観客との一体感。没頭していくと、自然に道は決まっていった。就職活動はしなかった。競技者としては大学生までとしたが、卒業後もスケート靴をはき続けることを決めた。失いかけていた滑る喜びが、違った形でショーには満ちていた。
23歳で結婚、24、25歳で2人の女児に恵まれた。少しのブランクはあったが、氷を離れるつもりはなかった。そして、18年。
■「特別」な浅田真央と
SNSでの告知を見ると、迷うことはなかった。
「浅田真央サンクスツアーのキャスト募集します」。
すぐに指先は動いた。「ポチッと」と押したその応募が、1つの縁をつなぎ直した。
「引退した直後は結婚する前に、海外のショーに出演してみたいなと。同世代でそういう人もいたので。でも、結婚して妊娠、出産したらさすがに海外にいけないので、その募集を見て夢がかなうかなと。心の中で何かやりたいと」
何より、「浅田真央」という名前は特別だった。
出会いは小5。野辺山合宿。年齢が同じ、誕生日が近い姉舞と同部屋となり、その妹として知った。とにかく姉妹はずぬけていた。
「真央ちゃんは2歳下ですが、その時に3回転を5種類跳べてて異次元だったんです。異次元の姉妹でした」
そして、醸し出す雰囲気。
「断トツにスタイルもいいし、性格もいいし。うまい人は怖いイメージだったんですけど、そういう感じでもないし、ほわほわしてる。張り合う感じじゃないのをみたのは初めてでした。ピリピリしててうまい選手はたくさんいますけど」
キャストの申し込みは1番手だった。小学生で知った衝撃のまま、競技者としては世界女王にもなり、五輪メダリストにもなった2歳下の「異次元」のスケーター。その人は、直に触れるとまた違う衝撃があった。
「いままではジャンプとか技にすごいこだわりが強い方なのかと思っていましたが、衣装や照明にもすごくこだわりが強い方で、総合的にショーを考えていると思いました。曲順なども。技だけではなく、見せ方、立ち方、こういう風な向きとか、舞台演出家のような。いろんな視点で考えていると思いました」
赤坂のショーで腐心した総合演出の経験が、そのすごみを一層際立たせた。
家庭もコーチ業もある。スケジュールはタイトになった。日本全国からメンバーが集まり、まとまった短期間練習を組むと、深夜帯の貸し切り時間が主になる。午後9時から午前3時までリハーサルして、仮眠を取って午前7時からまた滑る。そんな日常もあった。特に浅田のこだわりは、キャストにも高いレベルを求め、互いに「観客第一」の高みへ向かった。毎年、毎ショーごとにさらに上を目指す。
「最初は浅田真央ちゃんのファンだから、受け入れてもらえるのかなとか不安みたいなものもありました。やじとか飛んできたらどうしようと」
もちろん心配は杞憂(きゆう)。いまはソロパートもある。
「タンゴは、現役の選手には出せない感じを出してほしいと言われているので頑張ります。答えがないと言えばないので悩むこともありますけど、たしかに現役の時の表現とは違ったものが出せているんじゃないかなと思います」
林の舞は、艶やかさをたたえる。ふだんのおっとりとした立ち居振る舞いから離れ、そこに経験を織り込む。タンゴのリズムに、四肢の先々、視線の送り方、男性陣との交錯の仕方、照明の捉え具合などを絡め、腐心の跡が見る者を捉えていく。
大学生で知ったショーの魅力はいま、同世代の世界的スケーター、浅田と出会うことでさらに広がっている。
■スケーターの未来像
「普段は生活サイクルが大変ではあります。でも、スポットライトを浴びて、みんなの前で披露するときは、すべて忘れてできるから、楽しいですね!」
それは98年、長野で見た光景に重なるのかもしれない。「白くてきれいなリンクの中。囲まれている中で注目される」、そんな場所。
05年、競技者として初めて臨んだ全日本選手権では、足が震えた。
「スタート位置で立ったときに、あんなに人がいるのに静まり返っているじゃないですか。自分でポーズを取っているときに震えたのは覚えてます」
サンクスツアーでも最初はガクガクときた。ただ、いまは違う。頼もしいメンバーと何を表現できるか、届けられるか。長期ツアーで一体感は深まり、心は躍る。
そして、その先は…
「いまは『プロスケーターって何?』と聞かれますね。プロボーダーみたいな。全然認知度がない。フィギュアスケーターというと一般的に想像するのが選手ですよね。アイスショーとはならないのかなと思うし。選手=プロと思っている人もいる。プロフィギュアスケーターといって『アイスショーに出ている方ね』と言われるようになったらうれしいですね。アイスショーも試合より目立たない存在だと思うんですけど、浅田真央さんというフィギュア界のスターが立ち上げ、全国を回っているので、これでかなり大きな意味がありますよね。知られてほしいと思います」
海外では50代でもショーに出続けているスケーターもいる。その年齢でしかできない表現がきっとある。だから、まだまだ現役であり、先がある。
「ヒュンヒュン」?「グイグイ」?
浅田風に言う、人生経験の厚みをリンクに刻む滑りこそ証し。「プロスケーター林渚」をこれからも重ねていく。【阿部健吾】(敬称略)