政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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美輪明宏が作詞・作曲した「ヨイトマケの唄」という曲がある。炭坑の工事現場で、男たちにまじり、泥にまみれながら働く友人の亡き母を描いた名曲。長野五輪の前年1997年秋、北海道帯広市にあるスピードスケートの清水宏保の実家で母津江子さんを取材したとき、思い浮かんだのが、この曲だった。

幼少期からスパルタで鍛えられた父均さんが91年2月死去。均さんの創業した「拓祥建設工業」は休業に追い込まれた。残された4人の子供。末っ子の清水はまだ高校2年生だった。家計を支えるため、津江子さんは、清水の学校のお弁当を作った後、ヘルメットをかぶり、自ら現場に出て、土ぼこりにまみれた。マンホールの中にも入った。

「宏保も歯を食いしばって練習している。くじけてはいけない」。土木作業員の生活は2年間続いた。その後は看護助手も経験。取材に行った当時も、週6日、午前9時から午後6時までミシンに向かう日々だった。そんな苦労をみじんもみせず、息子の生い立ちから、現在の苦境まで、2時間余りも取材に応じてくれた。金メダルを目指す息子への思いが伝わってきた。

一方で、清水本人は五輪本番が近づくほど、自らの殻に閉じこもっていく。取材に応えないだけでなく、メディアとはあいさつどころか、目も合わさなくなっていった。「人に気を使いたくないから徹底的に避けた」とのちに清水。自分のためはもちろん、苦労をかけた母には世界一で報いたい。当時は腹も立ったが、それだけ競技だけに専心していた。

1998年2月10日、長野五輪スピードスケート男子500メートル。観客席で見守る津江子さんのそばでレースを見守った。上司のデスクからレース後の母の反応を取るよう厳命されていた。左胸のポケットに夫均さんの遺影を入れた津江子さんはスタート前から「転ばないように、転ばないように」と涙を流して祈った。清水は、そんな母の期待に応えるように、1回目でトップに立つと、2回目は五輪新記録を塗り替えて、日本スケート界初の金メダルを獲得した。

表彰式から約15分後、興奮冷めやらぬスタンドの津江子さんのもとに、清水が駆け寄ってきた。自らの首から金メダルを取ると、そっと母にかける。「父が亡くなって、1人で苦労していたから、かあちゃんを喜ばしたかった」。津江子さんは、最高の孝行息子に「これは宏保のものだよ」と、息子に金メダルをかけ直した。

息子のため、丁寧に取材に応じた母、競技のために極限まで集中した息子。そんな親子を見てきただけに、あふれるものを抑えられなかった。今も自分にとっては国民が熱狂した金メダルレース以上に、あのスタンドでの親子の絆が、胸に刻まれている。【田口潤】