プロバスケットボールBリーグ2部(B2)のアースフレンズ東京Zへの移籍が6日に発表された元日本代表の岡田優介(35)が、日刊スポーツの取材に応じた。19-20年シーズンまでB1京都ハンナリーズで活躍。公認会計士の資格を持ち、3人制プロチームのオーナーとしては東京五輪出場を狙える選手を送り出すなど、コート内外で存在感を発揮してきた。日本バスケットボール選手会の立ち上げにも尽力し、初代会長も務めた。多芸多才で経験豊富なシューターが、コロナ禍においてB2チーム入りを決断した胸中を語った。

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常に頭にあるのは「日本のバスケをもっとメジャーに」というポリシーだ。青山学院大で過ごした2000年代半ばは国内トップリーグが2つに分裂するなど、日本のバスケットボール界は「暗黒期」だったと岡田は表現する。若いながらに、「バスケ界を何とかして変えたい。そのためには自分が大きな力を持たないと」と考え、公認会計士という「誰が見ても分かりやすいもの」を武器にすることを決意。猛練習に加えて猛勉強にも励み、プロ入り後、ついに難関試験を突破した。文武両道として知名度を高め、人脈を広げ、さまざまな話題を提供し続けてきた。

そんな岡田が今オフ、じっくり自分と向き合い、考え抜いた末に大きな結論を下した。日本代表経験を持つ実力者の新たな所属先は東京Z。19-20年シーズンのB2中地区最下位に沈んだチームだ。

岡田 最初に(東京Z代表の)山野さんと何時間もお互いの意見を交換した。次に(監督の)東頭さんとも会った。東頭さんには昔、日本代表チームでアシスタントコーチとして指導していただいた縁もあるのだけれど、加入したら僕をこんなふうに起用したいとか、僕のベストシーズンにしようとか、そんな話をしてもらううちに、ここでやってみようかなという気持ちが芽生えてきた。

4月、どのチームとも接触可能な「自由交渉選手リスト」に公示されたあと、いくつかのオファーは受けたが妥協はしなかった。新型コロナの影響が大きい今オフは、多くのチームの編成方針が従来とは異なる特殊なものになると感じていた。だからこそ、無所属の状態で開幕を迎える選択肢も持っていたという。体づくりさえしっかりしてれば、いつかチャンスはくる-。そんなふうにも考えていた中で出した東京Z入りという選択。決め手となったのは、クラブが持つビジョンだった。

岡田 そりゃ、プロ選手である以上はB2よりB1でプレーできたほうが良いとは思うけれど、それは僕にとって最優先事項ではなかった。それよりも、チームが今後どう成長していくか。その3年後、5年後の姿のほうが大事かなと。

現役Bリーガーでありながら、岡田は3人制バスケのプロチーム、東京ダイムの共同オーナー(芸人の麒麟・田村裕氏、大西ライオン氏と3人で所有)という肩書きも持つ。自身もクラブ経営者だからこそ、個人オーナーとして東京Zをこつこつと育ててきた山野代表の発する言葉が心に響いた。

岡田 共感できる部分があったし、自分の力が何か役に立てるかもしれないとも思った。選手としてだけでなく、自分のこれまでのキャリアや経験値が、クラブの経営面にも寄与できる可能性がある。そんな部分にもやりがいを感じた。

新宿区で生まれ育った都会っ子。プロ選手になった最初の7年間も、首都に本拠地を置くトヨタ自動車(現A東京)でプレーした。直近の4年間を過ごした京都に「みんなとても温かく迎え入れてくれた。すごく好きな場所になった」と感謝しつつ、故郷に戻ってきたことは素直に「嬉しい」と口にする。

大学時代からの同級生で、プロ入り後もチームメートだった正中岳城(A東京)が先日引退を発表した。

岡田 突然でびっくりした。あいつからは、「おまえはもう少し頑張れよ」みたいな感じで言われて、それが直接影響したわけではないけれど、じゃあ自分はコートの上で、もう少しだけ悪あがきしてみようかなと。

プロ14シーズン目となる新しいシーズンが開幕したら、早い段階でクリアすべきことがある。代名詞でもある広角シュートによる得点だ。

岡田 実は通算999本なんですよ、3ポイントシュート。国内リーグで1000本達成している人はまだまだ少ないと教えてもらって。まあ、あと1本足りない状態で引退するのも面白かったのかもしれないけれど(笑い)。

積み重ねてきた3点シュートが大台に乗るのは、新しいユニホームでの最初の1本。遠くから放物線を描いたそのボールがネットを揺らすとき、大資本クラブに挑むベンチャーチームに新たな息吹が吹き込まれる。【奥岡幹浩】