男子はコンサドーレが3連覇を果たし、来年の北京オリンピック(五輪)日本代表となる権利をつかんだ。高校生チームの常呂ジュニアにリードを許す展開となったが、底力を発揮し、9-7で逆転勝利。快進撃を続けてきた若い力の前に立ちふさがり、王者の貫禄を示した。4月の世界選手権(カナダ)で6位以内に入れば、北京五輪の出場枠を獲得する。

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危機だった。第7エンド(E)。コンサドーレは一挙3点を奪われて試合をひっくり返された。相手は快進撃を続けてきた常呂ジュニア。直後の第8Eでも的確なドローを連発されていた。失いそうになっていた流れを救ったのは、サードを務める清水のスーパーショットだった。

このエンドにおける清水の2投目。中央付近にあった相手のストーンを3つまとめてはじき出すトリプルテークアウトを成功させる。清水は「きょうはよく分からない緊張があってチームに貢献できていなかったが、苦しい場面でなんとか一投決められた」と会心のショットを振り返った。

息を吹き返したチームは3点を奪い返して再逆転すると、第9Eではスチールで加点。終盤の大事な局面で王者の底力を誇示し、3連覇を果たした。

その名称からも分かるように、サッカーJ1クラブの運営会社によって設立された。ベテランの阿部やスキップの松村ら前身チームのメンバーに、18年ピョンチャン(平昌)五輪代表の清水も加わり、戦力が大きく向上。そして資金面などのバックアップも得たことで、競技に打ち込める環境が整った。阿部は、18年夏のチーム設立前と比べて「やっぱりがらっと変わった。今までできなかったことができるようになった」。練習施設や遠征面における支援に感謝する。

4月の世界選手権で6位以内に入れば、22年北京五輪の出場権を得られる。19年大会では4位に入っており、実力を出せば五輪切符には十分に手が届く。松村は「まずはメダルを取って帰ってくることがチームの目標」。国内最強チームとして、五輪出場権のみならず、さらなる上を見据えている。【奥岡幹浩】

○…快進撃を続けてきた高校生チームの常呂ジュニアは、決勝でも見せ場を十分につくった。スキップの前田拓海(常呂高3年)は「僕のミスで3点を失い、もったいないことをした」と逆転負けを悔やむも、王者に対して堂々とぶつかった。当初は30年冬季五輪での金メダル獲得を目指していた。今大会での躍進を受けて前田は「26年金メダルに変えます」。目標の“前倒し”を宣言した。

○…男子はコンサドーレが北京五輪日本代表となる権利をつかんだ。4月にカナダで行われる世界選手権で6位以内に入れば、北京五輪に日本代表として出場することが確定する。ここで出場枠を取れなかった場合は、12月の世界最終予選に回る。女子は3月にスイスで予定されていた世界選手権がコロナ禍で中止。世界連盟は五輪出場権を決める代替案を検討中。ロコ・ソラーレは日本選手権の連覇達成が日本代表となる権利獲得の条件だったが、北海道銀行が阻止したことで、後日あらためて代表決定戦が行われる。

◆北海道コンサドーレ札幌カーリングチーム サッカーJ1コンサドーレ札幌の運営会社が18年8月に創設。バドミントンに続く他競技参入の一環として、前身の4REALを母体に結成された。同11月のパシフィックアジア選手権優勝。19年2月の日本選手権で初出場初優勝から3連覇。19年4月の世界選手権は日本勢最高タイの4位となった。

<コンサドーレの歩み>

12年 06年トリノ、10年バンクーバー五輪で女子日本代表コーチを務めた阿部が3月に日本協会のコーチを辞任。8季ぶりに現役復帰し、6月に98年長野五輪代表の佐藤浩、竹田直将、松村の4人で前身となる「4REAL」を結成。

13年 日本選手権に初出場し3位。

15年 竹田に代わり林佑樹が加入。日本選手権でSC軽井沢クに敗れ準優勝。

16年 日本選手権は3位。谷田が正式加入。

17年 日本選手権は2度目の準優勝。4月に阿部が小笠原歩と組み混合ダブルス世界選手権に出場も五輪出場枠は獲得できず。佐藤がチームを離れる。

18年 相田晃輔が加入。日本選手権で3度目の準優勝。8月にSC軽井沢クの清水が移籍してコンサドーレ発足。11月のパシフィック・アジア選手権(PACC)で優勝し、世界選手権切符獲得。

19年 日本選手権初優勝。世界選手権(カナダ)で日本勢最高タイの4位。PACCは準優勝。

20年 日本選手権2連覇。