7大会ぶりの決勝に臨んだ天理大が17-22で明大の壁に屈し、初優勝を逃した。

ラインアウトのミスや相手の堅い防御で苦戦し、後半は最大17点ビハインド。フッカー島根一磨主将(4年)のトライなどで追い上げたが、84年度まで3連覇した同大以来、関西勢34大会ぶりの頂点は遠かった。

明大は22大会ぶり13度目の日本一に輝き、復活V。故北島忠治監督が亡くなった96年度大会以降、低迷していたが、就任1年目の田中澄憲(43)が再建を担い、王座に返り咲いた。

最大17点差から5点を追うまでに迫った天理大最後の攻撃。全速力でぶちかまそうとしたCTBフィフィタのノックオンで、薄暗い秩父宮の空に笛が響いた。

17点を追う後半29分、1度倒されながら起き上がってトライしたフッカーの島根は、泣くことなく、崩れ落ちる後輩に手を差し伸べた。「悔しいけれど、最後に攻めて、出し切れたのかな」。客席を見て、こらえた涙が出てきても、胸には不思議な達成感があった。

「出し切る」。創部93年で築かれた伝統だ。「最後まで走りきれって」。1年前の新チーム始動時、走り込みの最後1~2メートルで緩めた仲間に主将は叱咤(しった)した。「それが一番、腹立つ。そこをやらないと勝てない。それは小さかろうが、外国人だろうが、関係ない」。関西2連覇中のチームを締め直した。

最後に関西勢が全国制覇した84年度に同大1年だった小松節夫監督(55)は93年、当時関西Cリーグ(3部)の天理大コーチに就任。練習開始の直前まで部室でテレビにかじりつく部員を見て「勝つ喜びを知らない。かわいそうだな」と感じた。ピッチを縦に往復する「ランパス」を排除し、相手を引きつけ、真横にパスをすれば抜ける2対1の練習で楽しさを伝えた。

天理大が勝つために必要な要素も明快だった。高校生を見る際には「負けていても、最後までボールを追いかける子」を基準にする。今も昔も変わらない。

この日の先発15人で高校時代の花園経験者は、明大の14人に対し9人。実績、体格差を感じさせないラグビーに憧れ、入学してきた男たちだ。決戦2日前、指揮官は「最後までボールを追いかける子」を聞かれ「全員ですよ」と明言した。準優勝が決まった後の取材では、最後まで前へ進み続けた島根について、3年生フランカー岡山が「ずっと憧れ。最後にいい思いをしてほしかった」と涙した。

小松監督は「7年前は一発勝負で挑みにいった。今回は次につながる」と静かに言った。左膝を骨折しながら先発した花園未経験の2年生SO松永は「雰囲気を楽しめた自分もいたし、のみ込まれた自分もいた」。明治コールと涙の決勝を財産とし、1年後に忘れ物を取りにいく。【松本航】

◆天理大ラグビー部 1925年(大14)6月、前身である天理外国語学校の開校と同時に創部。天理教2代真柱の中山正善から黒のジャージー、パンツ、ストッキングを贈られ、天理高の「純白」とともに「黒」で統一されている。関西大学リーグは昨秋2度目の3連覇、計10度の優勝。主なOBは荒川博司(元大工大高監督=故人)、記虎敏和(元啓光学園監督、現女子パールズ監督)ら。所在地は奈良県天理市。