89年夏の甲子園。第71回大会で富山商の3番浅井樹(現広島3軍統括コーチ)が描いたアーチは、富山県の歴史に大きな足跡を刻んだ。同県勢にとっては21大会ぶりの本塁打。試合には敗れたが、反響は大きかった。その後、夏の甲子園で5人の富山代表選手が本塁打を放つも、同県の通算9本塁打は47都道府県で最少。100回大会となる今夏、節目となる10本目のアーチを描けるだろうか-。

   ◇    ◇   

 勝ちたい一心で、バットを振り抜いた。富山商の3番浅井は3点ビハインドの4回、鶴崎工(大分)エース鈴木の真っすぐを捉えた。聖地に舞い上がった打球は右翼方向へ飛び、ラッキーゾーンに吸い込まれた。「大会前の甲子園練習では1本も柵越えがなかったから、広いんだなぁと思っていた。感触は良かったけど、入るとは思っていなかった。まだ2点(ビハインド)あったけど、やっぱり気持ち良かった」。アルプス席はドッと沸いた。初得点の1発に…というだけが理由ではなかった。富山県民が待ちわびた本塁打でもあった。

 実はこの浅井が記録したソロは、夏の甲子園で富山県勢4本目の本塁打。68年の50回大会で高岡商の土肥健二が1回戦津久見(大分)戦で放って以来、21年ぶりだった。

 浅井 そんなことなんて知らなかった。ただ勝ちたい、まず追いつきたい、という気持ちだけだった。やっぱり一番は勝ちたい。ホームランを打てても、チームが勝てなかった。そっちの方が強い。

 富山商は浅井の1発による1得点に抑えられ、1回戦で姿を消した。敗戦翌日、浅井は新聞報道で「21年ぶり本塁打」という記録を知った。ただ、試合に敗れたこともあり、特別な関心を寄せてはいなかった。ただ、周囲は違った。チームメートとともに富山に戻ると、予想以上の反響があった。副主将を務めていた浅井は監督や主将とともに大会出場を新聞社など各地で報告を行った。戦いぶりを振り返りながら、話題の中心はいつも浅井の本塁打だった。あの1発が持つ意味は富山県では絶大だった。

 浅井個人にとっても、野球人生を変える1発となった。甲子園での本塁打と、外野から捕手への好返球が広島のスカウトの目に留まり、社会人野球へ進む予定だった未来が大きく変わった。

 あれから5人の富山県代表の選手がアーチを描いた。それでも夏の甲子園通算9本塁打は、47都道府県で最も少ない。浅井の1発は21大会ぶりの大会数でいうと、富山県の最長ブランク本塁打でもある(同県1本目は1939年で、2本目は62年。23年ぶりだったが、戦時中に開催されなかった年があり、大会数でいうと19大会ぶりだった)。現在、前回本塁打は94回大会の12年夏。1回戦の宇部鴻城(山口)で富山工の荒城英治が記録して以来、出ていない。

 浅井 最近になって北陸勢でも勝ち進む高校も増えたけど、当時はどこの学校が甲子園に行っても、1回戦を勝つのも難しかった。そういう歴史もあるかもしれない。でも、今も富山代表を応援している。母校が出ればうれしいし、母校でなくても勝ってもらいたい。

 浅井は富山を離れ、もう29年になる。それでも今も、胸には富山代表としての思いは残る。

 富山県の歴史に名を残したスラッガーは「もっともっと記録を塗り替えてもらいたい。出場した学校には勝ち上がってもらいたいし、本塁打数でもせめてビリからは抜け出してもらいたいね」と同県の後輩たちに笑顔で期待を寄せる。第100回の記念大会という舞台で、通算10本塁打という節目の1発が生まれるか、注目される。(敬称略)【前原淳】

 ◆富山の夏甲子園 通算26勝58敗1分け。優勝0回、準V0回。最多出場=高岡商18回。