岩手・二戸市福岡出身の村田栄三監督(故人)は、戦前から戦後にかけて旧制仙台一中、母校の福岡中、青森、盛岡三の東北4校を甲子園へと導いた。基本に忠実でありながら時に大胆な采配をみせた名将について、次男久さん(64)は「福岡中での選手時代が父の原点だった」と振り返る。

 福岡の捕手村田栄三が中腰になった時、球場全体がどよめいたという。エース戸来誠が大きく外したボールを投げ続け、塁を埋める-。1927年(昭2)夏の甲子園。高松商戦0-0の9回1死三塁から、バッテリーがとったこの満塁策は「日本初」とされる。

 久 結局は延長戦の末に敗れましたが、あれがその後の父の野球人生の原点でした。監督となってからも、選手にあのころの話をよく聞かせていましたね。

 日大主将を経て、旧国鉄マンとして仙台鉄道局に始まり盛岡、二戸、青森に勤務。赴任各地で指導した全4校を甲子園に導いた。現役の社会人捕手としてもプロから何度もスカウトされるほどだったが、固辞し続けた。理由があった。

 久 プロの誘いがあったころ、まだ小さかった長女が大病を患った。すると当時の仙台一中の教え子たち、仙台鉄道局の野球仲間が並んで輸血に協力してくれたんです。一命を取り留めた時、父はプロよりも、地元の東北でこの人たちと野球をやることが恩返しだと誓ったといいます。

 40、42年の仙台一中、47年の福岡中、60年の青森、そして73年の盛岡三。監督として率いたのは、すべて県を代表する進学校だ。選手を集めるのでなく、今いる選手の実力を見極め、最強のチームを作るのが村田の真骨頂だった。取り組んだのは基本の徹底。自身も盛岡三で指導を受けた久は振り返る。

 久 例えばバント練習。どこにあててどうすれば転がせるかを教えた上で、自分でプロテクターもつけずに捕手をやる。バッターは監督にケガさせたら大変だから、もう必死ですよ。そういう中で、基本というものを選手の体に染み込ませていくんですね。

 さらに重視したのがチームワークだ。9人の中に必ず1人、技術にかかわらず、仲間から慕われている選手を起用した。晩年、村田自身が岩手の野球誌「YELL」に寄稿した文章がある。

 「(実力が)四分六の勝負でも勝つことができる。これはほとんど私の信念でもある。私はしばしばチームに1人の人格者を配した。プレーは上手ではないにしろ、ナインに信頼される必要不可欠の選手である。そうすると1人をカバーするために8人は力量以上の力を発揮しなければならず、チームとしての和も強固になっていく」

 チームの力を最大限に引き出す指導力は、こうした強い信念から生まれた。監督としての甲子園成績は4勝4敗、うち6試合が1点差だった。口ぐせは「今の1球は戻らない」。この瞬間に集中しろ、と伝え続けてきた栄光の戦績だ。

 09年、98歳で死去した。久は「監督引退後も請われればどこにでも指導に行った。90を超えても野球一筋、本当に幸せな人生だったと思う」。葬儀には代々の教え子400人が各地から参列した。厳しさと優しさにあふれた「東北高校野球の父」をしのんだ。

 亡くなる直前、久はベッドの父のうわごとを聞いて驚いたという。

 「さあこい、戸来」。

 80年前、満塁策を一緒に成功させた相棒の名を呼んだ。数多くの球児を聖地へと導いた名将はその最期に、1人の野球少年に戻り、甲子園に帰っていたのかもしれない。(敬称略)【石井康夫】