マエケンがまたしても快投だ。ドジャース前田健太投手(28)が、敵地でのロッキーズ戦で7回途中まで3安打無失点1四球8奪三振と好投し、無傷の3勝目を挙げた。6回途中まで無安打とほぼ完璧な内容で、広島時代の97勝と合わせ、日米通算100勝に到達した。メジャーデビュー以来4試合に先発して20回以上を投げ、1失点以下は史上初の快挙。防御率0・36とリーグトップの座もキープした。

 歴代の剛腕が苦心してきた関門も、前田にとっては1つのボールパークにすぎなかった。クアーズフィールドといえば、標高約1600メートルに位置する名物球場。酸素が薄く、球が遠くへ飛ぶといわれ、投手泣かせの難所として知られてきた。ところが、前田の感覚は違った。「違和感なく投げられました。とりあえずいつも通り入って、うまくいかないことがあった時に考えようかなと」。予備知識はあっても、先入観は持たない。前田特有の柔軟な思考から、快投が始まった。

 初回。開幕6戦7本塁打のメジャー記録を樹立し、新人王争いの宿敵となりそうな1番ストーリーを空振り三振に打ち取り、快テンポに乗った。2回に四球を与えたものの、5回まで無安打。6回1死からラメーヒューに初安打を許し、大記録の夢は消えたが、集中力に乱れはなかった。1死満塁のピンチでは、3番アレナドをカウント1-2から時速135キロのチェンジアップで二飛。「一番大きかった」と振り返るアウトを奪い、0行進を続けた。

 大記録への色気とは無縁だった。「まったくないですね。5回だったら、先は長いので。8回くらいまでにならないと意識しないです」。96年、野茂が同地で唯一のノーヒットノーランを達成したことは球史の一部として知っていた。ただ、当時、大阪・岸和田で育った前田少年は、サッカーや水泳に明け暮れ、メジャーどころか、日本のプロ野球にもほとんど興味を示していなかった。そんな前田が20年後、同じマウンドに同じド軍のユニホーム姿で立ち、野茂の偉業をひもとかせるような快投を演じた。

 7回、先頭を三振に打ち取り、球数が94球となった時点で「お役御免」。救援陣の助力を受け、今季3勝目、日米通算100個目の白星を手にした。「広島での97勝はチームメートや指導者に感謝したい。こっちに来ての3勝はいいスタート。ここから数多くドジャースで積み上げられるように頑張りたいです」。デビュー以来、快投を続け、先発4試合でわずか1失点。前田を取り囲む空気が、「野茂マニア」が巻き起こった20年前と、徐々に似通ってきた。【四竈衛】

 ◆クアーズフィールド ロッキーズの本拠地。海抜約1600メートルのデンバーに位置し、30球団で最も標高が高い。そのため打球の飛距離は2割増となり「打者天国」として知られる。酸素が薄いためスタミナ切れを起こしやすく、低い気圧のため変化球の切れも悪い。日本投手も苦しめられ、黒田は5試合で1勝3敗、防御率5・83。石井は6試合で1勝3敗、防御率8・00。この球場で唯一ノーヒットノーランを達成した野茂も、通算10試合で3勝1敗、防御率8・05だった。

<最高スタートデータ>

 ▼デビューから4試合すべて先発し、計1失点以下は、1リーグ時代の19世紀を含めてもメジャー史上初(20投球回以上)。

 ▼投本間が現行の18・44メートルになった1893年以降で、自身初先発から4試合で計1失点(25投球回以上)は、1907年のマクイラン(フィリーズ)、81年のバレンズエラに続く3人目。ただマクイランはデビュー戦が救援登板で、バレンズエラは前年に10試合救援した。

 ▼正確なイニング記録が残るようになった1913年以降、デビューから4試合連続クオリティースタート(QS、6回以上を投げて自責3以下)到達は76人目。その間に1失点のみは初。日本人は田中(16試合連続)以来2人目。

 ▼ベーブ・ルースの活躍で「飛ぶボールの時代」と呼ばれるようになった1920年以降、デビューから4試合連続で6回以上1失点以下は5人目。次の試合でも同達成なら、24年にアーニー・ウィンガード(ブラウンズ)が記録した5試合連続の最長記録に並ぶ。

 ▼デビューから無傷の3連勝は、日本人投手では14年田中(ヤンキース=6連勝)以来8人目。先発投手では4人目。