殿堂入りした故津田恒実さん(享年32)が亡くなったことを報じた1993年(平5)7月21日付日刊スポーツの紙面記事。<復刻:炎のストッパー、津田さんが脳腫瘍で死去>

 1982年(昭57)新人王、名ストッパーとして活躍した元広島投手の津田恒美(つだ・つねみ)さんが20日午後2時45分、脳腫瘍(しゅよう)のため福岡市中央区の済生会福岡総合病院で死去した。32歳。くしくも、津田さんが5回も出場し快速球を披露したオールスター第1戦の当日、2年余りの長い闘病生活にピリオドを打った。プロ通算生活10年間で49勝41敗90セーブ。早すぎる死に球宴会場の東京ドームは関係者が驚きとともに、深い悲しみに包まれていた。

 だれもが「本当ですか!?」と絶句した。巨人長嶋監督らセ・ベンチはもちろん、西武清原らパ・ベンチの関係者も声を失った。津田さん死去の悲報は、球宴開幕のセレモニー直前、両軍関係者に届いた。元同僚の広島大野は「信じられない。津田は元気になると、自分に言い聞かせていたのに」と目を潤ませた。

 オールスターには5回出場し、いつもバネの利いた躍り上がるようなフォームで剛速球を披露した。元気でいれば、この日もこの舞台で快投を演じたことだろう。まだ32歳。闘病中だったのは大半の関係者が知っていたが、この若さで逝ってしまった稀有(けう)な才能に、だれもが言葉を失った。

 炎のストッパーが病魔に襲われたのは一昨年のことだった。91年の春季キャンプ中から頭痛を訴えて、同年開幕直後の4月16日、風邪による体調不良を理由に登録を抹消された。そして5月15日、上土井取締役球団部長が緊急会見を開き、津田さんが「水頭症」であることを発表(当時、脳腫瘍であることの発表は周囲の動揺を避けるため控えられた)。同20日に準支配下選手とした。

 その後、福岡市内の病院で治療を受けたものの、過激な運動はもう無理と判断された。広島の優勝が決定する前に本人から、退団届が提出された。球団は本人の意思を尊重して、同年11月6日付で退団を受理した。新人王に輝き、86年は優勝に貢献。89年には40SPで最優秀救援投手賞を獲得した津田さんはプロ10年目で、31歳だった。90年こそ故障に見舞われたが、まだまだ現役で投げられる年齢なのに、病魔に野球生命を奪われてしまった。

 昨年3月末のこと。津田さんは博多遠征中のチーム宿舎へ陣中見舞いに訪れた。元気そうな姿に山崎隆、北別府らは安心した。「広島では現役として復帰させてもらえないだろうから、博多が本拠地のダイエーの入団テストでも受けて、もう一度マウンドに立とうかな」と、津田さんはかつてのチームメートに笑顔でもらしたという。ひょうきんな性格でナインのだれからも愛された男。生きがいを奪われても陽気に振る舞った。

 会話も不自由な状態に陥ったり、奇跡的な回復を見せたり一進一退が続いた。今年3月のオープン戦中、チームの福岡遠征の折、山本監督は正田選手会長、山崎隆を連れて見舞いに行った。その時にはやせほそった痛ましい姿だった。それでも奇跡的な回復を信じ、山本監督らは津田さんに励ましの言葉をかけた。

 願いはかなわず、帰らぬ人となった津田さん。あまりに若すぎる死だった。

 ◆夫人と共に自宅へ

 津田さんは午後2時45分、福岡市の済生会福岡総合病院で家族にみとられて静かな眠りについた。ほとんど報じられていなかったため、病院に駆け付ける人の数も少なく、東京ドームの華やかな舞台とは対照的な光景だった。遺体は午後7時30分、晃代夫人(30)に付き添われ、親友のダイエー森脇浩司内野手(32)に見送られて故郷の山口県新南陽市に向かった。

 ◆「もう野球出来ない…」

 最後の登板後コーチ室で悔し泣き。津田さんの現役最後のマウンドは1991年(平3)4月14日の対巨人3回戦だった。1-0でリードの場面、8回から登板したが、ヒット2本、1死球で逆転負け。1死もとれずに2失点で敗戦投手となった。この時のことを広島前投手コーチの池谷公二郎氏(現評論家)は「KOされた津田がコーチ室にやってきて、もう野球をやる自信がなくなったと言いにきたんだ」と話した。ロッカー室でフロにも入らず1時間説得したことがあった。病院へ行ったのはその翌日だった。「2回見舞いに行ったが、悔しいと言って泣く姿は見ていられなかった」と肩を落とした。※当時紙面の名前表記は津田恒美