5月29日に死去した、東海大系列野球部名誉総監督の原貢氏(享年79)のお別れの会が14日、東京ドームホテルで行われた。

 会の最後、原辰徳監督(55)が謝辞を述べた。以下全文。

 7月14日、故・原貢のお別れの会に、お忙しいところ、たくさんの方々にご参列を頂き、感謝を申し上げます。

 この会を執り行うにあたり、東海大学の松前達郎総長には実行委員長を務めて頂き、重ねて御礼申し上げます。

 父は派手なことは好む人ではありませんでした。きっと旅立った先から、少し照れながら深く、深く感謝していると思います。このお別れの会は、家族の、そして何より父が残した宝物である、教え子の皆さんの意思だとご理解下さい。

 父が倒れたのは5月4日のことでした。大好きだったゴルフをして、自宅へ戻りました。午後2時ごろになって、「お母さん、のどが渇いたからビールを持ってきてくれるかい」と言い、いつものように「おいしい」と飲んだそうです。

 間もなくして、「背中が痛いのでマッサージをしてくれ」と言ってから、時を置かずに「胸が痛い」と訴えました。

 様子がおかしいと思い、妹夫婦が病院へ連れて行き、救急車で北里大学病院の集中治療室へ運ばれました。車の中では、意識も意思もハッキリしていたそうです。「先生、この痛みに耐えられるのは私だけだと思うよ。もう1度ゴルフがしたいので、私も頑張るから先生よろしくお願いします」。こう医師に伝えて、闘病に入りました。

 主治医の先生によると、最初の背中の痛みの時に心筋梗塞を、胸の痛みの時に大動脈解離を、ほぼ同時刻に発症したようです。

 倒れてから、父は我々家族に25日間もの貴重な時間を与えてくれました。「奇跡的な回復力です」。先生はそう言いました。私がしゃべりかけてうなずくことも、妹の手を握ることもありました。

 しかし、5月29日の夜でした。東京ドームで楽天との試合が終わった後、午後10時35分におやじさんのところへ到着しました。その5分後の午後10時40分、家族、親族が見守る中、苦しむ姿を一度も見せる事なく、私を待っていたかのように穏やかにゆっくりと旅立っていきました。堂々と誇らしげに見えた最期でした。

 父は何より野球が大好きであり、人作りが大好きでした。この場には父の宝物である、たくさんの教え子のみなさんが参列して下さっています。父の教えはそれぞれの心の中に深く刻まれ、みなさんの教訓や原点となっていることと思います。

 厳しく、辛かった思い出も、今となっては不思議といい思い出ばかりに変わっています。私にとっても父であり、師であり、理解者であり、私のファンでもありました。そして私も父のファンでした。「辰徳。人生は挑戦だ、常にチャレンジャーだ。ボロは着てても心は錦。勝負に、人生に、堂々と立ち向かっていきたいものだ」。よく言っていた言葉です。

 2002年、初めて巨人軍の監督になった時のことです。こうアドバイスを受けました。「辰徳、監督になると考えごと、悩みごとが増えるなあ。ひとつ言っておく。床について考えごとはするなよ。どうしても考えたいのなら、部屋の明かりをつけ、椅子に座って考えなさい」と。

 私にとっていちばん誇らしい思い出をお話しします。ある雑誌社の取材の時でした。聞き手の方が尋ねました。「お父さんは、辰徳さんを小さい時からプロ野球選手に育てようと思われたのですか?」。父は言いました。「私はそんなこと全く思いませんでした。しかし生まれたての息子の顔を見たとき、『健康な身体だけは作ってあげよう』。それが私の義務と思いました。ただそれだけでした」。大学4年生の私にとって、父が誇らしく見えた瞬間でした。

 父も母も九州から上京しました。やっとの思いで、三池工業で甲子園出場を果たし、そして全国制覇を成し遂げました。翌年には、神奈川の東海大相模高校の監督になりました。

 おふくろは夕方になると、西の空、九州の方角を見ながら涙を流していました。九州を離れ、さびしかったんだと思います。しかし、父が帰ってくると、いつものように朗らかに「お帰りなさい。お疲れさま」と何事もなかったかのように食事を出していました。

 子供ながらおやじさんに聞いたことがあります。「なぜ三池を離れたの?

 なぜこっちにきたの?」と。父はサラッと答えました。「オレは、どうしても都でもう1度勝負がしたかったんだ」。人生は挑戦。その言葉をまさに実践したのだと思います。

 私は父や、皆さんからお受けした教育のおかげで、今日も勝負に挑むことができます。「常に挑戦だ!」。その気持ちでこれからも戦ってまいります。

 父・貢に対し、長きに渡りご指導鞭撻(べんたつ)を頂き、本当にお世話になりました。誠にありがとうございました。父に代わり、家族を代表して感謝を申し上げます。