<楽天3-3日本ハム>◇28日◇Kスタ宮城

 日本ハムの稲葉篤紀外野手(39)が、1回にヒメネスから先制の右前適時打を放ち、史上39人目となる通算2000安打を達成した。初安打はヤクルト時代の95年6月21日広島戦(広島)。プロ初打席で初本塁打した日から16年と312日。全力プレーで日本ハム野球の象徴となったベテランが、杜(もり)の都で、野球人生の節目を迎えた。

 真っ青な空に突き上げられた拳は、誇らしげだった。1回2死一、二塁、カウント3ボールからの4球目。稲葉はヒメネスの148キロ直球を右前へ運んだ。2000安打目は、貴重な先制打。一塁上でガッツポーズし、チームメートたちと次々に抱き合った。

 「1打席目に打てるとは思わなかった。その後、チャンスで打てなかったので、実感がわかないけどね」。3、5回と満塁機で凡退し、5打数1安打。チームは今季初の引き分けに終わった。記録達成を申し訳なさそうに振り返るところが、何とも稲葉らしい。

 野球人生の分岐点は、04年オフ。FAでのメジャー移籍が難航し、先行きが見えない中、救ってくれたのが日本ハムだった。「日本でプレーする気持ちがあるなら、いつまでも待つ」。当時GMだった高田繁氏(現DeNA、GM)からの電話だった。日本ハムは育成を重視する球団。多くの反対を押し切って、高田氏が進めた補強だった。だが稲葉は、移籍1年目は打率2割7分1厘、15本塁打に終わり、チームも5位。「必死だった。僕を取ってダメだったと言われるのが嫌だった」。獲得してくれた球団への思いと、ふがいない自分へのいら立ちが、進化を生んだ。

 「何かを変えなければ」。翌06年、それまでの実績を捨て、打撃改造に取り組んだ。不調に陥ると決まって手打ちになり、打球が大きく曲がる。「下半身を使って、しっかりと上半身に力を伝えないと」。この一連の動作を確認するために始めたのが、ロングティー打撃だ。本塁の右側に立ち、上げてもらったトスを右翼ポールを目印に、打球が曲がらないよう打ち込む。春季キャンプからキャンプ終了まで連日続けた。現在でも打撃不振になると、決まって行う。今や若手もまねする稲葉の代名詞的なメニューだ。

 獲得に懐疑的だった球団内の評価は一変した。全力でプレーし、常に努力する姿勢が、チームの目指す姿と合致したからだ。背番号41は、日本ハム野球の象徴となった。06年日本シリーズMVP、07年には首位打者。ヤクルト10年間で972本を積み上げた安打数は、移籍8年目で2000本の大台に到達した。

 飛躍の舞台となった北海道で、現役をまっとうするつもりだ。「ボロボロになるまで」と現役にこだわっていた考えは、180度変わった。同期入団のヤクルト宮本から「日本ハムにいらないと言われた時がやめ時。よそには行くな」と説かれたことがある。「そう思っています」と即答。永住も考えるようになった。北の大地で次代を担う選手を育てることが、最高の恩返しだ。

 1歩引いた謙虚さと優しさが、人々を引きつける。ちょっと泣き虫で、だけど頼りになる男。ひとつの目標に到達し「振り返るのは早いけど、長かった。いろいろなことから解放されてホッとした。チームが優勝できるよう、またコツコツ頑張っていく」と穏やかな笑顔を見せた。【本間翼、中島宙恵】

 ◆稲葉篤紀(いなば・あつのり)1972年(昭47)8月3日、愛知・師勝町(現北名古屋市)生まれ。中京(現中京大中京)から法大を経て、94年ドラフト3位でヤクルト入団。05年日本ハム移籍。06年日本シリーズMVP。07年に打率3割3分4厘で首位打者、176安打でリーグ最多安打。08年北京五輪、09年WBC日本代表。外野手で01年ベストナイン、06~09年はベストナインとゴールデングラブ賞。185センチ、94キロ。左投げ左打ち。今季推定年俸2億円。