新日本プロレスで活躍した元プロレスラーの星野勘太郎さん(本名・星野建夫)が25日、肺炎のため都内の病院で死去していた。67歳だった。09年2月に脳梗塞(こうそく)で倒れて入院生活を送っていたが、肺炎を併発して息を引き取った。星野さんは61年12月にデビュー。小柄ながら荒々しいファイトで「突貫小僧」の異名を取った。引退後の02年にはヒール軍団「魔界俱楽部」総裁として現場復帰した。葬儀・告別式は27日に本人の意向で親族のみで営まれた。新日本はファン、関係者のためお別れの場を準備するという。

 闘病生活を続けていた星野さんが25日に他界していた。09年2月に脳梗塞で倒れて入院して以降、言語障害が残る体で復活を願い、リハビリを続けていた。関係者によれば「プロレスラーは弱い姿を見せてはいけない」と知人の面会も極力断っていたという。元気な姿でカムバックすることを目指していたが、肺炎の併発で病状が悪化し、帰らぬ人となった。本人の意向もあり、27日に親族のみの密葬が行われたことを受け、公表された。

 星野さんは身長170センチと小柄なレスラーだったが、プロレス技術は卓越していた。日本プロレス時代の71年2月19日の後楽園大会で、当時、爆発的人気を博した覆面レスラー、ミル・マスカラスの日本デビュー戦の相手に抜てきされた。ダイビングボディーアタックなどマスカラスの空中殺法を存分に引き出した。日本でマスカラス人気を決定づけた火付け役だった。

 普段は後輩レスラーに慕われる良き先輩だった。現役時代に数多くタッグを組んだ新日本の坂口征二相談役は「マージャン好きで誘ってくれたり、かわいがってくれた。頼りになる先輩だった」と悲しみにくれた。日本プロレス時代の後輩グレート小鹿は「新弟子時代、力道山から『心配する母さんに顔をみせろ』と言われて故郷に帰らなければならなかった時、何も持たない自分に細長いボストンバッグを貸してくれたことは忘れられない」と言葉を詰まらせた。新日本の天山広吉も「入門時はバリバリの現役で『レスラーたるもの強くなければならない。リングを降りてもナメられるな』とたたき込まれた」と感謝の言葉を続けた。

 95年2月の引退後もヒール軍団「魔界倶楽部」総裁で現場復帰し、スーツ姿で指さしながら「ビッシビシ行くぞ!」の名フレーズで新日本マットを席巻した。08年12月には昭和プロレス(後楽園ホール)に故山本さんとタッグで参戦。同年12月の新日本後楽園大会では、外道と対戦するなど還暦を過ぎても、リング内外で精力的に活動していたが、病魔には勝てなかった。名タッグ「ヤマハ・ブラザーズ」を組んだ故山本小鉄さんが8月28日に他界したばかり。その後を追うように、星野さんも天国に旅立った。