61歳の若さで7月31日に死去した元横綱千代の富士の九重親方。担当記者が取材時の思い出とともに、その人生と人柄を振り返る。【構成=河合香】

●子供と賜杯を抱いて記念撮影の始まり

 「ウルフ」とはよく言ったものだと思う。あの鋭い眼光での観察眼には何度も驚かされた。休場中でも出稽古したが、他の力士を見て研究する見取り稽古だった。当時の稽古場ではたばこも自由で、記者は居眠りをしないようにとも思って、よくたばこを吸っていた。稽古が終わると「吸いすぎ。5本吸ったな。稽古をちゃんと見てんのか」と怒られたことがある。

 支度部屋では浴衣地の上に、大きなグリーンのタオルを羽織るのがお決まりだった。あまり汗をかいたり、体を動かしたりはしない。腕組みしてジッと構えて、テレビに目を凝らしていた。打ち出し後、ある記者に「あいつと何かあったのか?」と聞いてきたことがあった。記者の座る位置や取材の様子で、仲のいい記者がケンカしたのまで見抜いていた。

 家族思いの人でもあった。1982年(昭57)に結婚した久美子夫人は福岡生まれ。準ご当所とも言える九州場所は、81年から8連覇を含めて9度優勝。85年の最後の優勝も九州場所だった。2人の間には優、剛、梢、愛と1男3女が生まれた。子供と賜杯を抱いて記念撮影を目標にした。今では当たり前も千代の富士が始まり。89年春場所14日目に左肩脱臼で千秋楽休場も優勝し、生後1カ月の末娘を抱いて撮影した。ところが、6月に急死して名古屋場所は数珠をかけて場所入り。北勝海と史上初の同部屋決定戦を制し、供養の28度目優勝となった。

 大横綱にもその時はくる。91年夏場所初日に貴花田(のちの横綱貴乃花)に一方的に寄り切られ、3日目に貴闘力に初めてとったりで敗れた。大鵬と同じ日に引退した。貴花田戦は休場明けで118日ぶりの土俵。初顔に41勝2敗、初日は38連勝だったが完敗した。実家の神棚には空き箱が飾ってあった。上京前日にあの貴ノ花から「いい体だね。お相撲さんにならない」と声をかけられ、「頑張れ」と書いた菓子折りをもらった。その箱だった。歴史的世代交代を肌で感じた。貴ノ花から受け継いだバトンを引き継ぐ後継者が現れたと決断した。

●ウルフ・スペシャル上手投げ169勝

 引退会見では「体力の限界…」と言うと言葉に詰まって涙した。潔い引退も忘れられないが貴花田戦後のコメントが記憶に残る。「三重丸って言っておいてよ。いや、五重丸だ」。これ以上ない絶賛で、リップサービスも千代の富士の魅力の一つ。土俵から支度部屋に戻ると、湯船でコメントを考えるのが常だった。貴花田とは場所前から初対決が話題にも「マスコミはもっと騒がなきゃ」と要求。まだ力士はしゃべるなという考えがあり、しゃべりがうまくない力士が多かったが、マスコミを巧みに利用し、励みにし、楽しんでいた。

 十両以上では41手で937勝した。勝った決まり手は寄り切りが最多で391勝。これに続くのが上手投げで169勝ある。横綱になってからの上手投げは「ウルフ・スペシャル」と呼ばれた。左上手からの投げで、右手は頭を押さえつけるものだった。逆に負けは29手で373敗。最多はやはり寄り切りで131敗。次がつり出しの67敗。勝ちでもつり出しは3位の58勝。データは腕っぷしの強さとともに軽量の弱みも示していた。

 通算で1045勝を挙げて246人と対戦しているが、幕内では北の湖6勝12敗、若乃花5勝9敗、輪島1勝6敗と先輩横綱にはさすがに負け越している。他では隆の里に十両時代を含めて13勝18敗と大の苦手としていた。新十両は同時昇進で、横綱初黒星を喫するなど因縁も多い。大関時代からは8連敗し、83年年名古屋場所からは4場所連続で優勝を懸けた落日相星決戦も1勝3敗だった。ただ、隆の里は遅咲きで病気もあって短命に終わり、千代の富士時代が続くことになった。

 92年に引退相撲を終えると、13代九重親方として部屋を継いだ。8人の関取を育て、現九重親方の千代大海は大関になった。現役にはいつも厳しい口調で辛口だったが、優しい一面もあった。部屋では弟子との交換日記を欠かさず、赤ペンでアドバイスを送った。取組後には絵文字入りのメールも。ケガをすると将来を優先し、無理をさせずに休場させるのが方針だった。

 理事は3期6年務め、12年にはNO2と言える事業部長に就任した。北の湖理事長の2歳下で、次の理事長になるかと思われたが、14年の理事選で落選した。周囲からの人望がもう一つだった。北勝海を鍛えて横綱にまで引き上げたが、部屋に横綱が2人になったことから、千代の富士は大将と呼ばれた。大横綱としてずっと持ち上げられ、お山の大将になっていた。親方になってもあまり変わることなく、目線を下げることができず、支援する親方も少なかった。一方で北の湖は面倒見がよく、それができた人だった。

●初取材で「名刺はいいよ、顔が勝負」

 15年には10人目の還暦横綱土俵入りを披露した。現役時代のようにトレーニングに励み、60歳とは思えぬ肉体だった。第2の千代の富士育成への思いも新たにしていた。一大イベントを終えて人間ドックに入ると、膵臓(すいぞう)がんが見つかった。「早期発見で良かった」と喜び、その後は1滴もアルコールを口にしなかった。今年になってがんが転移して鹿児島などで治療。名古屋場所4日目の13日を最後に休場し、都内で入院していた。ケガは乗り越えたが、病には勝てなかった。

 初めて取材した時に言われたことがある。「名刺はいいよ。顔が勝負」と。この世界は稽古場に足しげく通い、顔を覚えてもらうことが第一。今も変わらない教えだ。飲みに行く時にはきついラム酒のロンリコをしのばせ、同伴者やホステスに飲ませて楽しむようなちゃめっ気もあった。

 横綱昇進、53連勝、1000勝と日本中を3度沸かせた。一方で相次ぐケガや師匠に愛娘の死と波瀾(はらん)万丈の人生。15年に北の湖が亡くなり、千代の富士と相次ぐ大横綱の死は早すぎたが、2人を取材できたのは幸運だった。【河合香】(この項終わり)