横綱白鵬が土俵を去る。史上最多45度優勝など数々の金字塔を打ち立てた。10年の野球賭博問題、11年の八百長問題などの不祥事で危機に見舞われた時は、一人横綱として角界を支えた。一方、横綱としての立ち居振る舞いなどで、批判を浴びたこともある。白鵬の相撲人生を連載「大横綱 白鵬翔」として、担当記者らが振り返る。

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横綱という像を探し続けていたように思う。白鵬に接したのは、22歳の横綱昇進から63連勝にかけてだった。10度目の優勝を果たした09年春場所前、ゴルフ界の新星石川遼へ贈る言葉を聞いた。「変わらないことも大事」。即答だった。「トップに駆け上がると、それを守ろうとする気持ちが出てくる。この地位に見合うために何かを変えなきゃいけないのか、てね」。

若くから、すべての模範になることを求められていた。「守りに入るということは挑戦者でやってきた自分を見失っていること。新しいことをやりたくなるんだけどね」。当時は強くても「品格」という言葉で批判される朝青龍がいた。先輩横綱を反面教師にする道をつくられていた。

日刊スポーツ評論家だった大鵬さんから、よく伝言を頼まれた。「相手に頭からぶつかるとか、時には何かを変えるのも大事だよ」。それでも「ありがとう。でも今はそうじゃないんだよね」と右四つを極めていた。四股やてっぽう重視の稽古を「番数が少ない」と批判されても耳を貸さなかった。上の番付がなく、引退と背中合わせで自らを貫き、究極の心技体を目指しているように見えた。

優等生は性に合っていたのだろうか。本来は負けず嫌いで好奇心旺盛、遊び心満載な人だ。土俵を離れれば笑みを絶やさず冗談を好み、元横綱輪島さんへの敬意とサプライズで黄金まわしで現れた。後年の奇襲や残念なほどの荒い相撲は素の部分だと思う。朝青龍や琴光喜、日馬富士…多士済々のライバルが突然いなくなったことも変貌ぶりに関係したのかもしれない。

そんな自分を分かっていたのか座禅や呼吸法を突き詰め、心の持っていき方を探した。土俵入りからこだわるなど、とことん相撲の歴史をひもといていた。果たして正解は見つかったのだろうか。横綱昇進パーティーでは会場の隅にいた夫人の父を壇上へ呼んだ。「お義父さんがいて、今の私がいる。ありがとうございます」。感謝の心を忘れず、相撲を愛し、角界の危機を救ってきた。見つけようとした相撲道を後世へ伝えていって欲しい。【06~10年相撲担当=近間康隆】