[ 2014年2月21日9時48分

 紙面から ]女子フリーで会心の演技を見せた浅田は、手を握り泣き顔になる(撮影・PNP)<ソチ五輪:フィギュアスケート>◇20日◇女子フリー

 浅田真央(23=中京大)が「最高の演技」でよみがえった。フィギュアスケート女子フリーで、自己ベストを大きく上回る142・71点をマーク。トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を今季初めて成功させ、フリー後には「最高の演技ができた」と言った。合計198・22点の6位ながら、充実感に満ちた表情。前日のショートプログラム(SP)ではまさかの16位。失意の底から、「感謝」の気持ちを胸に復活し、2度目の五輪を終えた。

 あふれる涙で、見上げた白い天井はにじんだ。浅田に感情、魂が戻った瞬間だった。顔をくしゃくしゃにして左手で口元を覆う。「やった!」と思ったのと同時に、大粒の熱いものが両ほおをつたう。

 浅田

 メダルという結果を残せなかったので、あと残されたのは自分の演技だけでした。そこで最高の演技ができて良かった。たくさんの人が支えてくれたので、恩返しができた。

 感謝、そして歓喜。前日のSP後に届いたたくさんの「笑顔をみせて」のメール。応えたかった。心からのとびっきりのうれし泣きだった。

 前日SPで感情が消えた。集大成として臨んだ舞台で、3回転半で転倒すると、全3つのジャンプすべてでミス。16位という結果に金メダルが絶望的になると、喜怒哀楽どれにも当てはまらない、空虚な体と心がそこにあった。「自分でも終わってみて、まだ何も分からないです」。五輪独特の緊張感にのまれ、自分に負けた。ぼうぜん自失で絶望のふちにいた。

 それは、この日の午前8時過ぎからの練習でも同じだった。「してないようなものだった」。簡単なジャンプでのミスを連発。抜け殻のような姿で、ソチのリンクであえいでいた。まだ感情は消えていた。

 そこから試合まで約10時間、自分との対話を続けた。「バンクーバーから4年間やってきたことはなに?

 一から見直したことを出さないと」「支えてくれた人に恩返ししたい」。己を叱咤(しった)した。赤飯をほお張り、睡眠を取った。佐藤コーチからは、試合前に発熱した選手が最高の演技をした思い出を話された。「何かあったら助けにいくから」。バンクーバー五輪後から師事した72歳の恩師の一言-。「何もそういうこと(発熱)のない自分が、できないわけがない」と勇気づけられた。

 「いける」と確信があったのは直前の6分間練習だった。3回転半を決めた。「最終的にはやるしかない。自分を信じて、練習してきたことを信じて」。吹っ切れた。そして約50分後、リンクにラフマニノフ作曲「ピアノ協奏曲第2番」が流れ始めた。出番は来た。

 新衣装の濃い青色が、青い会場に映える。「できる」。そう念じ続けて26秒後。大きく、力強く舞った。重力から解放された体に感情が戻っていく。確信があった。「やった」。右足で氷をとらえて、滑らかに回る。失意のSPからたった22時間後、同じ銀盤の上で今季13回目の挑戦で初めての成功。もう何も浅田を阻めない。あとは「最高の演技」を届けるだけ。

 11年12月に母匡子さんがこの世を去った。悲しみの中で思い出した母の願いは「いつも通りやること」だった。その日からそれは娘の信条になった。前日はできなかった。この日、「天と地の差があった」という土壇場の滑りで、その願いを果たすことができた。それが最高の恩返しだった。

 「ホッとして、それから4年間よかったと思えると思う。どんどん(その気持ちが)強くなるんじゃないかな」。そう柔らかにほほえんだ。来月26日に日本で開幕する世界選手権(さいたまスーパーアリーナ)には出場する意向だ。「(4年後の想像は)できません」「いまはそのあとのことは考えていないです」。いまは、この日を戦い抜き、生き抜けたことへ、感謝するだけだ。【阿部健吾】