さあ、関西シリーズだ。今年の阪神対オリックスの日本シリーズは、1964年(昭39)の阪神対南海(現ソフトバンク)以来、59年ぶりの関西勢同士の対決。“牛若丸”といわれ、「1番遊撃」で日本シリーズに出場した吉田義男氏(90=日刊スポーツ客員評論家)が、59年前を回顧。自身が指揮を執った85年以来となる日本一を目指す古巣にもゲキを飛ばした。【取材・構成=寺尾博和編集委員】
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1964年は、アジアで初めての五輪が東京で開催された年でした。日本は高度成長の兆しをみせ、国民が戦後の復興を願った。東海道新幹線が開業し、美空ひばりの「柔」が大ヒットしたんです。
2年ぶりに優勝した我々は、南海と日本シリーズで対決することになった。うちの監督は「伊予の古たぬき」の異名をとった藤本定義さん、南海は「親分」とリスペクトされた鶴岡一人さんです。
日本は金メダルをとる「東洋の魔女」(女子バレー日本代表)などで盛り上がって異常な雰囲気に包まれた。シリーズは第7戦までもつれますが、五輪の開会式と重なって、すっかり熱気を吸い取られました。
阪神は球団創立30周年のペナントレースで、あと7試合を残して、3・5ゲーム差をつけられた三原脩監督率いる首位大洋をひっくり返し、奇跡の逆転リーグ優勝を果たしました。
そして公式戦最終日の翌日から、休む間もなくシリーズ突入です。疲れがないといえばウソになるが、ドタバタでしたわ。バッキーが終盤に先発したから、初戦は村山実。でも南海スタンカを打てなかった。
実は阪神は南海と仲が良かった。巨人対南海の日本シリーズでは「森祇晶(巨人)は引っ張りより、ショートの頭を越すような打球が多い」などといった情報を南海とひそかに交換し合ったものです。
気心が知れた南海との第2戦は、バッキーで阪神が勝って、大阪球場に移った第3戦も1点差で逃げ切り。第4戦は村山がハドリのサヨナラ本塁打で敗れたが、第5戦はバーンサイドで3勝2敗に持ち込んだ。
私は初めてレギュラーシーズン打率3割(3割1分8厘)を記録し、日本シリーズでも「1番ショート」で出場していました。流れは阪神。王手をかけて「よしっ、いける!」と思いましたよ。
でも、勝負は時の運と言いますが、雨が降るんです。2日間の水入りですわ。そして甲子園での第6戦、第7戦は、スタンカに連続完封を食らってジ・エンドです。
最多勝男バッキーがエース、勝率1位の石川緑も投げた。63年オフ、小山正明が大毎に移籍、ヤマさん(山内一弘)が「世紀のトレード」で阪神入り。チームは刷新されたが、南海を上回ることはできなかった。
短期決戦は雨で流れが変わったと言わざるを得ない。ちょっとしたスキが明暗を分けることを知った苦いシリーズでした。それと外国人で扱いにくいはずのスタンカを連投させた。監督鶴岡の勝負に対する執念にすごみを感じたものです。
だから、阪神監督だった1985年は、最後まで手綱を緩めず、絶対に「優勝」を口にしなかった。とにかく勝負はげたを履くまでわからないという教訓が身についていたからです。
3年連続リーグ優勝のオリックスに比べて、阪神の選手は経験が浅い。でも一戦、一戦、力を出し切れば勝機はくる。とにかく「先手必勝」で優位に立つことです。カギを握るのは岡田采配でしょう。
59年前、日本シリーズで「終戦」となった甲子園の観客は1万5172人です。秋風が身に染みた。今の選手は恵まれすぎです。超満員の大舞台でプレーできる幸せをかみしめて欲しい。そして最高の戦いを演じ、日本一の頂点に立つことを期待しています。
◆64年日本シリーズ阪神VS南海 大洋(現DeNA)とのつばぜり合いを制し、9月30日にセ優勝を果たした阪神は、翌日の10月1日から日本シリーズに臨んだ。関西球団同士の「御堂筋シリーズ」となった南海戦は、初戦で南海スタンカ、第2戦で阪神バッキーと両助っ人投手が好投し1勝1敗。第5戦に勝った阪神が王手をかけた。ここで南海は、第6戦、7戦とスタンカを2試合連続で先発に起用。意気に感じたスタンカに連続完封を許した阪神は、日本一を逸した。




