鋭いスライダーで記憶に残るリリーバー、内竜也投手(35)がロッテ投手としての17年間のキャリアを終えた。慣れ親しんだ背番号21を脱いでの、今の思いを聞いた。今回は前編。【金子真仁】

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内は17年前、1位指名が有力視されたドラフト会議を目前に困惑していた。「っていうか、なんで僕はそんなに評価されてるんですか? 素材がいいと言われても、高校生にも普通に打たれます」。17年後もクエスチョンマークが消えない。「サトさん(=里崎智也氏、日刊スポーツ評論家)が動画で僕をすごく推してくれているじゃないですか。うれしいです。でもそこまで評価されるあれは、自分では分からないんです。これだけケガもしてるし。内と言えばケガ、ケガ、ケガですよ」。

ファン感謝デーで里崎智也氏とともにステージに飛び入り参加する内竜也(2004年11月21日撮影)
ファン感謝デーで里崎智也氏とともにステージに飛び入り参加する内竜也(2004年11月21日撮影)

いつからか手術室で緊張しなくなった。「9回ですよ。足首4回、肘3回、肩1回、盲腸1回」。公立高校出身。顧問の代わりにノッカーを務めて練習が終わる日もあった。猛練習とは無縁、体作りもプロで本格化した。「体に負担がかかるフォームだったから。他の人と違う体の使い方をしてたから。足首も肘も。スライダーの投げ方が特徴的なんでしょうね」。スカウト陣をうならせ、プロの猛者たちをも苦しめた魔球が、もろ刃の剣になっていた。

実はこんなことも、と添えた。「足首の手術で前日午前から入院したんです。暇で寝て、午後に起きたら腹痛がひどい。血液検査で盲腸って分かって、夜には違う病院に運ばれました。盲腸で手術しちゃうと足が先延ばしにされるので、盲腸は何とか薬で散らして、1週間後に足の手術をしました」。霊感が強いとされる球界関係者に「お前は本当にヤバい」と断言されたこともあったとか。

ケガの裏返しで、活躍もより光った。象徴が2010年、西武とのCSファーストステージだ。「あの2試合で僕の人生は変わったと言っても過言ではないです」。初戦、救援に失敗しベンチで泣いた。「戦犯というか、今季を終わらせてしまったと思って」。怖さしかなかった翌日第2戦、同点の10回に起用され、やり返した。「あそこで西本コーチと西村監督が使ってくれたから。あそこで使ってもらえなかったら、ここまでの選手になれなかった」。

10年の日本シリーズ第7戦で雄たけびをあげる内竜也(2010年11月7日撮影)
10年の日本シリーズ第7戦で雄たけびをあげる内竜也(2010年11月7日撮影)

手術の申し訳なさと、待ってくれる感謝と、恩返しせねばの気概。とりわけ感謝は大きい。自分を信じ、ミスの翌日に挽回の機会をくれた首脳陣。理学療法士の望月一さんは何度もリハビリに付き合ってくれた。「望月さんがいなければ僕はない」。今夏に逝去した恩師に支えられ1軍に戻ると、いつもたくさんのファンから勇気をもらった。

思い出があふれている。「でも結局、この世界に入れなかったら、その後の思い出は1つもできなかった」と言う。無名の公立高校の投手をドラフト1位指名。「当時は分からなかったけれど、今なら分かります。進退かけていたと思うんです」。担当の飯塚佳寛スカウトへの感謝は、年を重ねるごとにどんどん強くなっていった。(後編へつづく)