カラフルな水着をつけたまるいおしりが、真っ青なサイパンの海にぽっかり浮かんでいた。シュノーケルマスクの管の先が、海上でゆらゆら揺れていた。なぜかそのそばで、立派な体格のオジサンが海面に向かい、大きな声で叫んでいた。

「こら!! いくら水着姿を見られるのが恥ずかしいからって、いつまでもぐっとるんや!? 溺れるぞ、まどか!!」

1989年2月の近鉄サイパンキャンプ休日。仰木彬監督ら首脳陣も海で休日を過ごすというので、担当記者たちも海岸にいた。波打ち際でぱちゃぱちゃやっていたら、大きな声が聞こえてきた。中西太打撃コーチだった。

へ、中西さん、私、ここにいるんですけど…、

「なんや、そしたら、この水着の人はだれや?」

知らんがな…。

人違いを悟った中西コーチは、あたふた。そして、水面に浮かぶ水着のそばに、青ざめた男の子が1人…。

シュノーケリングの最中のカップルの女の子を人違いし、大声でからかっていた。迫力あふれる怒鳴り声に肝をつぶしながら海面に顔を出した女の子は、そそくさと彼氏とその場から退場。中西さんは「悪いことをしたなあ…」としょげかえっていた。

5月に亡くなった中西太さんとの思い出は、数え切れない。

当時はコワモテだった仰木監督と担当記者の間をつないでいたのは、中西コーチ。つたない質問で担当記者が監督ににらみつけられ、肩を落とす担当記者に向かって中西コーチが「仰木の考えはこうやぞ」と説明。選手に対しても、口数の少ない監督をフォローし、考えを的確に伝えていた。ありがたい存在だった。

個人的にも、助けられた。当時はプロ野球に女性記者がほとんどいない時代。野球をやったことのない女子の質問を、プロの選手はどう受け止めているのだろう、と勝手に気後れしていた。もう1歩を、なかなか踏み出せないでいた。そんなこちらの気持ちをくんで「だれに野球を教えてもらったんや? て選手やコーチに聞かれたら、中西に聞いた、って言え」と言ってくれた。「だから、わしの話すことはちゃんと覚えとけ」という念押しとともに。

怪童のお墨付きに、幾度も救われた。“直接指導”を受けたことは、かけがえのない財産になった。

そのうえ「仲人はわしがやるぞ」と言われていたのに、期待に応えることができなかった。【堀まどか】