平成中期に甲子園で話題になった変化球が今、絶滅の危機にある。奥浜正(58)が宜野座(沖縄)の監督を務めていた2001年(平13)。21世紀枠でセンバツ初出場した際に比嘉裕投手が投げ「宜野座カーブ」と呼ばれた魔球だ。

宜野座カーブのはじき方を説明する奥浜氏(撮影・金子真仁)
宜野座カーブのはじき方を説明する奥浜氏(撮影・金子真仁)

親指と人さし指の間から抜くのが、一般的なカーブだ。ただ奥浜は「腕の振りの速さにひねりがついていかない。カーブはこの一致が難しい」と感じていた。かつて経験した円盤投げを思い出した。人さし指で切り、強烈な回転をつける-。この原理を応用した。

内から外へ。シュートの捻転で縫い目を切り、カーブを投げる。この感覚を身につけるためだけに、1日の練習全てを費やしたこともある。比嘉も、マスターまで2カ月かかった。強烈な縦回転のカーブは打者には脅威だった。センバツで対戦した桐光学園(神奈川)の天野喜英(35=現・同校教諭)は「すごく重いカーブ。極端にいうと比嘉君は右腕なのに、左腕のカーブのように見えた」と18年前の残像を証言する。

「宜野座カーブ」として有名になると、多い年には奥浜のもとに50人近くの指導者が「教えてほしい」と訪れた。北海道からも来た。関東の大学生が個人的に来たこともある。「それでもなかなか感覚を分かってもらえない。みんなすぐに諦めちゃう」。時間をかけて、投手にゆっくりと染みこませる変化球。他校ではほとんど定着しなかった。

変化方向と逆に腕をひねる。「ありえない」「ケガをする」と批判も多かった。ただ奥浜は「本来、ボールを投げた後は腕は外側に向く。むしろ普通のカーブは、内側にひねってしまっている。宜野座カーブは理にかなっているボールだと思うんです」と言う。野球界を取り巻く「肩・ひじ問題」の解決策の1つになりうるとも考えている。

 
 

奥浜には高校教師の定年が迫る。私立校で指導を続ける選択肢もあるのでは、と問うと「問題は私の体なんですよ」と言う。若くして腎臓を患った。数値が悪化し、この3月末まで本部高校を半年間休職。4月に復職したばかりだ。県外の私立校から誘いもあったが、断ってきた。

「こうやると感覚をつかみやすいですよ」と空へ白球を投げた。パチンと音がし、強烈な縦回転がつく。教わった通りに何球か空へ投げる。「筋がいいね」と褒められた。「投げた後に腕を内側にたたんで」とアドバイスをもらう。こうしてマンツーマンで作り上げる魔球なのだろう。

弟子はいても、孫弟子はほとんどいない。「正確な投げ方や意義を広める手段はないんでしょうか」と奥浜は悩む。既成概念を超えた魔球は、時代を超えていけるか。「1日弟子」として活字で感覚を伝えるならば、ベーゴマの回し方や、スマホ画面を左から右へスクロールする感覚(右投げの場合)に少し似ている。内から外に縫い目を切るのが宜野座カーブだ。(敬称略)【金子真仁】