「なぜ君たちは野球をやるのか」

1950年(昭25)、高校を出て、川崎重工の野球部でプレーを始めた目見田(めみた)寛さん(87)は、人事部幹部からの問いかけが忘れられない。

いくらか会社の宣伝にはなるからだろう、などとのんきに構えていたら、背筋が伸びるような答えが返ってきた。

「力を合わせて、社会に貢献するのがわが社の使命だ。君たちは、そのシンボルなのだ」

だから職場のみんなで応援するんだと聞いた。試合に出ても、優勝しても手当はつかない。なぜなら、お金のために野球をやっているわけではないからだ-。

「お金のため」。それは、当時、アマチュアがプロに抱いていた嫌悪感みたいな気分を表してもいた。

52年11月、「サンベツ」富士製鉄対春美 生還する富士製鉄・横塚。捕手は春美・石川
52年11月、「サンベツ」富士製鉄対春美 生還する富士製鉄・横塚。捕手は春美・石川

社会人に限らず、高校も大学も、アマは「精神」でプレーする崇高な野球。プロは芸を見せて金を取るサーカスみたいな野球。1試合いくらでチームを渡り歩く「野球ゴロ」も少なくなかったし、「プロ崩れ」なんて差別的な呼び方もあって、アマ球界には、プロをさげすむ空気が根強くあった。

だから「プロ崩れ」が主力を担うチームは、強くても1段低く見られた。社会人野球に参入してすぐ、産業別対抗の全国大会「サンベツ」に出場したとはいえ、キャバレー春美にも、そんな視線が向けられていた。

1954年の正月、神戸新聞に掲載されたキャバレー春美の広告(下)(兵庫県尼崎市立地域研究資料館所蔵)
1954年の正月、神戸新聞に掲載されたキャバレー春美の広告(下)(兵庫県尼崎市立地域研究資料館所蔵)

だが、元プロもアマも、選手たちが共通して抱いていた思いがある。

銃をバットやグラブに持ち替えた若者たちは、大学に復学し、企業に就職し、戦争に奪われた時間を取り戻そうと、こもごも野球を続ける道を探した。「野球を続けたい」という気持ちに、元プロもアマも関係などなかった。

目見田さんは、戦争が終わって、戦地から帰ってきた先輩たちが楽しげにプレーする姿を今も覚えている。「チームには、戦前の大学野球で活躍した先輩たちも戻っていました。みんな、平和な時代が来て、好きな野球ができることが、ただただうれしそうでした」

プロと社会人野球は60年代以降、長く緊張関係にあったが、当時、元プロが社会人でプレーすることは、条件付きながら自由だった。戦後、社会人の新チームが続々と結成され、企業は元プロを積極的に採用した。プロ野球の将来が不透明だったので、元プロもこぞって社会人チームの門をたたいた。日本野球連盟によると、49年から60年までに939人の元プロが社会人チームに入団した。

戦火をくぐって生き延びて今、野球ができる。その喜びが、あのころの若者をグラウンドへと駆り立てていた。(つづく)【秋山惣一郎】