ざっと数えて21パターン(東大野球部100年史編纂=へんさん=委員会調べ)。創部100年を迎える東大野球部のユニホームは、変わり続けてきた。その時々の「変化」には、強い思いが込められている。

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決して弱いチームじゃなかった。1974年(昭49)秋、法大の1年生エース、怪物・江川卓に大学野球初黒星をつけるなど、この年春は2勝、秋1勝。点差的には互角の善戦が何試合もあった。

だが、社会人野球の監督から転じて1年目、週刊誌が「オニ監督のシゴキ」という特集を組むほど、時代遅れの熱血指導で鳴らす岡田彬監督(63年卒)には、まだ物足りなかった。学生運動の熱がキャンパスから去って、部員たちは「シラケ世代」と呼ばれていた。勝っても「まぐれっす」と斜に構え、負ければ「東大で負けて悔しがってたら身が持ちません」とあっさりしたもの。悪いうわさも聞こえてきた。大学の定期試験で、机に野球部員証を置いて「勉強は大目に見てね」と言いたげな部員がいるらしい。

「心のイチョウマークを取らなきゃいけない」。東大のシンボル「イチョウ」に甘えて、野球も勉強も中途半端になってはいないか。

74年暮れ、正月休みを前に、岡田さんは言った。

「お前らは田舎へ帰れば、天才だ神童だとちやほやされる東大生だ。俺にバカのアホのと言われて過ごすのとは違う道もあろう。それでいいなら、またここに帰ってこい」

年が明けて75年、全員が帰ってきた。彼らを線の太い選手に育てて、迫力のあるチームに変える。猛練習プラスアルファ、ユニホームを一新して、体ごとぶつかっていこうじゃないか。

75年10月、東京6大学秋季リーグで立大を下し、12シーズンぶり最下位脱出に跳び上がってナインを迎える東大・岡田彬監督。左から伊藤仁遊撃手<4>、主将の渋沢稔捕手
75年10月、東京6大学秋季リーグで立大を下し、12シーズンぶり最下位脱出に跳び上がってナインを迎える東大・岡田彬監督。左から伊藤仁遊撃手<4>、主将の渋沢稔捕手

メーカーが持ってきたのは、プロでも採用を始めていたニット地の最新モデル。上着はニットの伸縮性を生かしたプルオーバー、パンツはベルトレスで、袖とパンツのサイドにラインが入る。スクールカラーのライトブルーを濃くして力強さを強調した。

さっそくマネジャーに着せてグラウンドを走らせてみた。「動きやすい」「ラインがバシッと入って斬新」と評判は上々だった。

75年春のリーグ戦が開幕した。入場式で岡田さんのもとに近寄った明大の島岡吉郎監督は、胸に踊る花文字の「TOKYO」を指して「東京球団みたいだな」。「東大らしくない」「野球チームらしい」というお褒めの言葉だったのだろう。

春は1勝に終わったものの、秋は明大に連勝、立大にも勝って、12季ぶりの最下位脱出を果たした。勝ち点を挙げて、最下位を脱出するという目的を達した岡田さんは、このリーグ戦限りで監督を退くことを決めていた。

神宮からの帰りのバス。岡田さんが最後に乗り込むと、部員たちから拍手が起きた。泣いてる部員もいる。決してシラケてなどいなかった。「うるさく言ってきたし、無理もさせた。でも、強くなって欲しい一心、すべてはこの時のためだ」。変わったのはユニホームだけじゃない。勝って喜び、負けて悔しがる。岡田さんの目に映ったのは、たくましく、頼もしい大学野球の選手たちの姿だった。(つづく)【秋山惣一郎】