横浜を過ぎ30分あまり。平塚駅に着いた。北口から真っすぐ行き、国道1号(東海道)を左折。右手に平塚八幡宮の大鳥居を見ながら、ぐるりと神社の外周を回るように進む。20分ほどで平塚市総合公園だ。木々の間にぬっと現れたのは、平塚球場。現在は「バッティングパレス相石スタジアムひらつか」と呼ぶ。プロは主にDeNAの2軍が使う。東海大や日体大が属する首都大学野球リーグのメイン球場でもある。


「思い出のある球場だよ」と、しみじみ語るのはDeNA田代富雄チーフ打撃コーチ(65)。「独特の雰囲気があるんだよなあ。のんびりしたなあ」と遠い目をした。が、いい思い出とは、いかないようで…。

完成は35年前の1985年(昭60)3月。25億円を費やした。1軍初の公式戦は86年6月17日。大洋(現DeNA)が広島を迎えた。小田原出身の田代コーチにとって、平塚は地元のようなもの。気合も入ったことだろう。大洋の「6番一塁」で先発したが、真っ先に思い出すのは「すごい雨。覚えてるよ! 強行したんだよ!」だ。

「バッティングパレス相石スタジアムひらつか」こと平塚球場
「バッティングパレス相石スタジアムひらつか」こと平塚球場

関東地方は前日16日に梅雨入り。17日は神奈川県に大雨洪水強風波浪注意報が出され、大洋の球団事務所には問い合わせの電話が約2000本も入った。この日は全国的に雨だったようで、他の5球場(ナゴヤ、甲子園、西武、山形、藤井寺)は全て中止。平塚の強行開催が際立つ。初の1軍公式戦で営業上の判断があったのだろう。ほぼ満員の1万5000人を集めたが、試合では“凶”と出た。

2点を追う5回1死三塁で、田代は左中間に会心の当たり。ところが、雨風に押し戻され、犠飛に終わった。この1点だけで金石に完投を許す。3位大洋と首位広島のゲーム差は5・5に広がった。「普通ならホームランだったのにな」。今でも感触が残っている。

強行開催はペナントの行方にも影響を及ぼした。「強行して、遠藤(一彦)で負けた。悔しかったなあ」。エースで1点差の惜敗。その時点で3連敗だったが、歯車が狂い始め、13連敗までいった。開幕からAクラスを守っていたが、5位に後退。結局、4位で終えた。優勝は、平塚で敗れた相手、広島だった。

1986年6月19日付日刊スポーツ最終版
1986年6月19日付日刊スポーツ最終版

田代にとっても不運な年だった。平塚の翌日、横浜での広島戦で左手首骨折。離脱を余儀なくされ、この年は67試合の出場にとどまった。悪運は平塚から始まっていたのだろうか。

「両翼は91メートルしかないのに、ふくらみがあって意外と入らない。風もあって、打者有利じゃないよな。まあ、野球は苦しい思い出ばかり。良かったことなんて、ちょっとだけ。人に言われて思い出すぐらいだ」

通算278本塁打も、苦しみの積み重ねだった。今は後進を育てる立場だ。

「ドームが増えて環境は良くなったけど、昔の方が球場ごとの思い出は残るなあ。傾斜や風。すごく気にしていた。選手にはいい思い出を作ってほしいね」

球場を訪れたのは小雪がちらつく日だった。取材を終えると、球場隣接のスパ施設へ駆け込んだ。天然温泉で温まりながら、田代コーチの言葉を思い出す。球場には野球人の思いが詰まっている。さあ、次はどこで下車しよう。温泉、温泉、東海道線…熱海。(つづく)

【古川真弥】