2012年7月。ピンストライプのユニホームに袖を通したイチローには、新たな試練が待ち受けていた。慣れない左翼の守備だけでなく、スタメンが確約されない日々。打順も下位になり、途中出場も増えた。だが、全てを受け入れた。ジーター、ロドリゲスらスター選手とプレーする日々は刺激的だった。「クラブハウスの空気が理想的。成熟という表現が当てはまる」。同年はプレーオフに進出。緊張感が途切れないヤ軍には、イチローが求めていたものがあった。一方で、代打の代打を送られる屈辱も経験。契約切れとなった14年オフ、ヤ軍からのオファーは届かなかった。

15年4月、マーリンズ-ブレーブス戦の試合前、ベンチでナインと笑顔で話すイチロー(中央)
15年4月、マーリンズ-ブレーブス戦の試合前、ベンチでナインと笑顔で話すイチロー(中央)

当時41歳のバットマンに声を掛けたのは、若手中心のマーリンズだった。1月末には、首脳陣が来日し、日本で入団会見。「選手として必要としてもらえる。これが何より大切で大きな原動力になると思います」。背番号「51」も復活。4番目の外野手として再出発することになったものの「『これからも応援よろしくお願いします』とは絶対に言いません」と、プロとしての矜持(きょうじ)をのぞかせた。

この頃から表情、言動に変化が表れる。練習中でも笑顔が絶えず、20代前半の同僚たちを「かわいくて仕方ない」と表現した。16年には日米通算でピート・ローズの最多記録を超える4257安打、メジャー通算3000安打を達成した。「僕が何かをすることで、僕以外の人たちが喜んでくれることが何よりも大事」。偉業のたびに、支えてくれる周囲への思いを口にした。

44歳で迎えた18年3月、古巣マリナーズに復帰した。このオフはFA市場が停滞。交渉は遅々として進まなかった。ただ、神戸で黙々と練習した日々を「泰然とした状態」と振り返った。そして「全てをささげたい」と、マ軍への忠誠心を明かした。

だが試練は続く。5月には選手登録から外れ、肩書が会長付特別補佐に変わった。ユニホーム姿で練習をする日課は変わらなくとも、試合が始まるとダッグアウトから姿を消す。引退ではなく、翌年の戦列復帰を目指す日々。それでも、クラブハウスでおにぎりを食べ、グラウンドで練習するルーティンが変わることはなかった。

幕を引いたのは東京だった。19年3月21日。日米通算3604試合目を終えると、すがすがしい表情で会見に臨んだ。「後悔などあろうはずがありません」。そして、「孤独感を感じて苦しんだこともあった」と胸の内を明かした。

球界の常識を覆す振り子打法でデビュー後、次々に大記録を達成することで重圧は増し、目の前の壁も高くなった。だが、イチローは1度たりとも目を背けなかった。ヒットの裏にある凡打。成功の裏にある失敗。イチローの28年間は、決して栄光だけではない。【四竈衛】

(この項おわり)