2000年(平12)10月の、木曜日の夜だった。野球記者から総務への異動の内示を受け、野村さんにあいさつをしようと神宮球場の室内練習場に向かった。野村さんがオーナーを務めていた港東ムースの練習が行われていた。野村さんの予定は分からない。ただ、記者はほぼいない。話ができるとしたらそこしかない。

少年たちがマシンで打ち込んでいた。1時間ほどして野村さんのベンツが見えた。のっそり、のっそり入ってくる。記者の顔を見て「珍しいのがおるな。なんや」と声をかけてくれた。

チームの父母とあいさつして、一段落したところで「異動になりました。監督には大変お世話になりました。今まで大変勉強になりました。ありがとうございました」。少年たちの打撃練習を見ていた野村さんは、こちらを向き直って、じっと記者の顔を見て言った。「お前、今日、俺がここに来るかどうか、不安だっただろう。よう待っていたな」。

日常的なサラリーマンの人事異動だ。ただ節目に、世話になった人にはきちんとあいさつはしたかった。人知れず来て、短くとも自分の言葉を伝えたかった。空振りへの不安はあった。

以前の番記者が、真剣にあいさつに出向いた思いをくんでくれた。「森羅万象、世の中のことにはすべて原理原則がある。まあ、しっかり勉強しろ」。数分だったが、大切な会話になった。

98年4月、中日との試合前、ベンチで報道陣と談笑するヤクルト野村監督
98年4月、中日との試合前、ベンチで報道陣と談笑するヤクルト野村監督

野村さんには琴線に触れる言葉があった。少なくとも、そうした情景が1度でもあれば、野村さんへの敬意を失うことはなかった。毒舌、ぼやき、ねたみ。いろんな角度から野村さんの性格を批評する声を聞いたが、常に自分の立ち位置で受け止めていた。

「プロ野球選手から野球を取り上げたら何が残る。何も残らなければただの大男。そうなるな」

「財を残すを下、仕事を残すを中、人を残すを上」

野村さんは多くのプロ野球選手を育て、ID野球という考え方を世に広めた。財については分からないが、仕事と人を残した。あとは、野村さんに育てられた多くの野球人が、今度は育てる番。教えを後世に引き継ぐ使命を担う。

常に扉が開け放たれた監督室で、必死に書籍のエッセンスをノートに書き写す。その光景を廊下からちらっと見た選手の中には否定的な声もあった。野村さんはそれも知っていて「この部屋で一生懸命ノートに書き写しててな。ドアは開けっ放しだから、通りかかった選手は『何やってんだ』って思ってたと思う」と言って笑っていた。

思い出すのは機知に富んだ会話ばかり。嫌みもたくさん言われたはずが、いいことばかりがよみがえる。ヤクルト時代の野村さんを取材できたのは幸運だった。

「誰が線香あげに来てくれるんや」。自虐的なセリフを吐く野太い声が聞こえてくる。

野村さん。墓参り、行きますよ。大好きだったきんつば持って。【井上真】