甲子園大会がない8月。各都道府県では独自大会が開かれ、多くの球児が「特別な夏」を過ごす。

ある球児にとって、7月28日は記念日となった。国士舘(西東京)・中里遼哉内野手(3年)は初戦の清瀬戦に背番号17をつけ、3年目で初めてベンチ入りした。8回表を終え7-2。永田昌弘監督(62)は9回に二塁手で使うつもりだったが、8回裏に2点を加えコールド勝ちした。「代走でも良かったかなあ」と悔いるように言った。

清瀬対国士舘 勝利後、整列してスタンドにあいさつする国士舘・中里(中)(撮影・古川真弥)
清瀬対国士舘 勝利後、整列してスタンドにあいさつする国士舘・中里(中)(撮影・古川真弥)

中里は、身長162センチ、体重53キロしかない。一般入試で入学した時は158センチ、46キロだった。硬式経験はなかったが「レベルの高いところでやりたい。打撃が良くなく体も小さいけど、国士舘は走塁や守備で勝ち上がる」と強豪の門をたたいた。すぐに壁が訪れた。「体が違う。打球や肩の強さも」と差を痛感。それでも、ひたむきに練習した。早起きして弁当を作ってくれる母親。野球の話し相手になってくれる父親。「家族の応援で」続けられた。永田監督には「本当に真面目。体は小さいが、やる気は人一倍」と評価される。

チームメートも大きかった。「メンバー争いではライバルでも、普段は仲良くしてくれる」から頑張れた。1年生のころは違った。「絶対、グラウンドに一番乗りする」と決め、世田谷の校舎で授業を終えると、1人だけ最寄り駅まで約1キロを走り、多摩のグラウンドへ向かった。後の電車で来る同期たちに「お前が早く行くから俺らが遅く見られる」「真面目ぶるなよ」と言われた。何も言い返せなかった。

しかし、そのチームメートが野球に踏みとどまらせてくれた。昨夏の新チーム発足直後。Bチームの練習でミスしても注意されなかった。期待されてないのか…。「やってもしょうがない」と野球が嫌になり、マネジャー転身の希望をコーチに伝えた。その時だ。聞きつけた同期がきて言った。「決めるのはお前だけど、一番頑張ってきたじゃないか。お前に『やめたら』なんて言うヤツはいない」。駅まで走ることに最も文句を言っていた部員だった。「仲間だったんだ」。選手を続ける決心がついた。

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大会開幕前、中里に手紙を書いてもらった。2日かけた文章には、丁寧な文字で、両親、指導者、仲間への感謝があふれていた。こう締めくくられている。

「実力のない自分は背番号を付けてグラウンドでプレーできるかわかりませんが、残り短い間、一生懸命頑張っていきます。ベンチ入りできた時は、今までのすべての感謝の気持ちをグラウンドで精いっぱい表現したいと思います」

最後の夏。永田監督は3年生30人で臨むと決め、交代で全員ベンチ入りを目指した。初戦の人選を3年生に任せたら、中里が入った。勝ち続ければ再び入る可能性がある。昨秋の都大会抽選会。「中里なら野球の神様が味方してくれる」と、くじ引き役に指名したら、いい山を引き優勝。神様はいた。

野球にかける思いと、実力は比例しない。だが、誠実に努力する人間は、周りが放っておかない。次こそ試合出場を。きっと、神様も見ている。【古川真弥】

国士舘・中里の手紙
国士舘・中里の手紙
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