父の大きな手に引かれ、銚子電鉄に揺られたことを覚えている。千葉・銚子中野球部監督の斉藤之将(ゆきのぶ)さん(30)は「小学校の低学年でしたか。本銚子駅から一緒に君ケ浜まで。海を眺めて、灯台まで歩きました」と記憶をたどった。

大会優勝旗を持つ千葉・銚子中野球部の斉藤之将監督
大会優勝旗を持つ千葉・銚子中野球部の斉藤之将監督

父と2人だけで出かけることは、あまりなかった。2年前、がんのため59歳で亡くなった父俊之さんは、元銚子商監督。祖父一之さんも同校監督で、74年夏に甲子園優勝。父と祖父は、76年夏、77年春と「親子鷹」で甲子園に出場した。自らも銚子商に進み、3代続く親子鷹となった之将さんだが「祖父と父は親子鷹で甲子園。自分もそういう目で見られ、プレッシャーを感じてました」と打ち明ける。父と子から、監督と選手となった3年間。家では、なるべく口をきかないようにした時期もあった。

卒業後、都内の大学へ進むと本格的な野球からは離れた。09年夏、俊之さんが成績不振で監督を辞任したことが転機となった。「父が監督を終え、思うところがありました。自分は指導者にいかなくていいのかと。斉藤の野球の血筋を受け継ごうと」。選手として甲子園には行けなかった。ならば、甲子園やプロ野球に行く選手を育てたい-。大学で教職の授業を受け、中学の指導者を目指すことを伝えると、俊之さんは「そうか」とだけ。ただ、うれしそうだった。

銚子中に来て3年目になる。赴任した頃、俊之さんの闘病生活が始まった。大会で優勝したことを病床に報告すると「勝利にこだわれ」と返された。「中学も高校も一緒だと。勝負師としての厳しさを教えてくれました。『高校でも通用する取り組みをしなさい』とも。生徒たちには、硬式のバットを振らせています」。昨春は県準優勝。父の教えが実っている。

前任地は隣町の旭市だった。久しぶりに地元に戻り、銚子の一面に気付かされた。社会科を受け持つが「子どもたちは、みんな銚子電鉄が大好きなんです。この前も遠足で乗りました。地域から愛されている」。もう1つ、気付かされた。「銚子で斉藤ということで、いろんな場面で声をかけられます。祖父と父、改めて2人の偉大さを感じました」。いったん故郷を離れたからこその視点ができた。銚子電鉄と母校野球部の共通点も感じる。

「銚子電鉄は存続危機もある中、いろんな工夫で頑張っている。応援したい存在です。銚子商も頑張ってくれと、復活を望む声がある。似ています」

05年夏を最後に甲子園から遠ざかるが、銚子商には銚子中で教えた選手もいる。「銚子の野球に尽力したい。地元で活躍する選手を育てたいと思います」。時代を超えて電車が走り続けるように、祖父の代からの情熱も受け継がれている。(この項おわり)【古川真弥】