日本シリーズ4連覇を達成したソフトバンクの強さを説明するためには、前身のダイエー時代からの経緯を無視できない。

福岡ダイエーホークスは1988年(昭63)、南海ホークスを買収し、本拠地も大阪から福岡に移転して誕生した。初年度の89年は、南海時代から監督だった杉浦忠監督がそのまま指揮を執ったが4位。2年目から田淵幸一氏が監督に就任したがチームがまとまらず、優勝争いをできるようなチームにはならなかった。

そこで白羽の矢が立ったのが、西武を強豪チームに育て上げた立役者でもある根本陸夫氏だった。

92年オフ、西武時代と同じように全権を任されて監督に就任した。初年度こそ最下位に終わり、南海時代から続いた16年連続負け越しのワースト記録を更新したが、オフには西武の秋山幸二、渡辺智男ら大型トレードを成立させ、逆指名制だったドラフトでも小久保裕紀を獲得。FAでも阪神の松永浩美を補強するなど、翌年は同率4位で17年ぶりに勝ち越しを決めた。

根本監督は94年オフに監督を退いたが、球団専務として手腕を振るい続けた。巨人の黄金時代を支えた王貞治氏を監督に迎え入れ、ドラフトでは駒大への進学が内定していた城島健司を1位指名して獲得。FAでも古巣の西武から石毛宏典、工藤公康のベテランを獲得した。

その後、チームはやや低迷したが、99年にはリーグ優勝を飾り、日本シリーズでも中日を下して日本一を達成。翌年にもパを連覇し、日本シリーズではON対決で長嶋監督が率いる巨人に敗れたが、名実共に強豪チームに生まれ変わった。

西武を強豪チームに仕立てたときと同じように、監督に「巨人の血」を導入し、ドラフトやFA補強も強化。04年オフにソフトバンクへ経営を譲渡するが、球団の強化方針は変わらなかった。変わらないというより、豊富な金銭面による強化策はパワーアップしたと言っていい。FA補強だけでなく、05年に育成ドラフトが開催されるようになると「3軍」を設立。昨年の日本シリーズでも開幕戦バッテリーの千賀と甲斐、第2戦先発の石川、周東、牧原大は育成出身の選手だった。

ソフトバンクになって、開拓した「補強地」もある。4番を打ったグラシアル、DHのデスパイネ、中継ぎエースのモイネロは、いずれもキューバ出身。同国の有力選手を獲得し、外国人補強の軸になっている。

ここまでを見ると、巨人ファンの歯ぎしりが聞こえてきそうだ。育成制度の導入にもっとも力を注いだのは巨人だった。育成出身で最初の支配下選手になったのはソフトバンク小斉、西山の2選手だが、1軍の主力選手と呼べる活躍をした1号は巨人の山口鉄也。07年には育成選手の初勝利をマークし、翌年には11勝を挙げて新人王になっている。09年にはオビスポが育成出身選手で初の先発勝利をマークし、野手でも同年、松本哲也が新人王、ゴールデングラブ賞を獲得した。

社会主義国のキューバからも、亡命以外で正式に政府が承認して日本の第1号選手となったのは14年に巨人に入団したフレデリク・セペダだった。期待が大きかったが、1年目は52試合に出場して打率1割9分4厘、6本塁打で終わり、2年目は開幕から25打席無安打で、1本のヒットも打てず自由契約になった。セペダと同じ年に、ロッテにデスパイネ(現ソフトバンク)、DeNAにグリエル(亡命してメジャー)が入団。この3選手の獲得に関して、巨人に優先権があったとされていただけに、一番活躍できなかったセペダの獲得は痛恨だった。もし、デスパイネかグリエルを獲得していれば、その後の力の入れようも変わっていただろう。その後、当時のキューバ選手は国内リーグとの兼ね合いで来日などの制限があり、巨人はキューバ選手の獲得から事実上、撤退した。

育成制度にしてもキューバ選手の獲得にしても、巨人が一番先に実績を残しているにもかかわらず、いずれでもソフトバンクに歯が立たない状況に陥っている。豊富な資金面をバックに、ソフトバンクは育成選手に対しても通常のドラフトで獲得した選手と同じような待遇を用意し、獲得しやすい環境を作っている。ダイエーからいい部分を引き継ぎ、その後に開拓した制度の強化を続けている。一方の巨人はフロントの体制が変わると、前体制のいい部分まで否定してしまう傾向がある。言い方を変えると、巨人は開拓した強化策をおろそかにし、ソフトバンクは巨人のいい部分を取り入れ、チーム力として戦力強化を成功させた。(つづく)【小島信行】