初めての甲子園が終わり、地元に戻った三島南OB会長の諏訪部孝志さん(62)は、寄付金の精算や応援の返礼、あいさつ回りと、再び多忙な毎日を送っていた。甲子園の後、1週間の休養が与えられた選手たちは、おのおのジムに通うなどして、自主練習に励んでいるという。春に満足せず、夏もまた、という気持ちが、選手たちを駆り立てているのだろう。

後輩たちの練習を見守る諏訪部孝志・三島南高野球部OB会長
後輩たちの練習を見守る諏訪部孝志・三島南高野球部OB会長

1976年(昭51)夏。高校野球静岡大会2回戦。三島南は、静清工(現静清)に0-5で敗れた。見逃し三振で最後の打者になったのは、高校3年の諏訪部さんだった。前年夏、強豪ひしめく静岡大会で16強に入った。練習試合では、夏に全国優勝する桜美林(西東京)と互角に戦えた。学校やOBの期待も背負って臨んだ大会だった。力を出し切れなかった試合。思い切りバットを振れなかった最後の打席。夏が終わっても悔いと悔しさが、諏訪部青年の心に巣くっていた。

高校を卒業後、社会人の名門野球部を擁する東京の大手電機メーカーに就職した。不完全燃焼に終わった高校野球にけりをつけたい、と先輩を通じて練習参加の許可を得た。横浜市の練習場で大卒の選手たちに交じって汗を流す。力の差は感じたが「体を作れば、ついていける」と手応えはあった。甲子園の次は、都市対抗の後楽園が目標になった。

練習に参加して5日目、監督に呼ばれた。「部員数には限りがある。君を育てている余裕はないんだ」。現在の実力も、将来の可能性もないことは、諏訪部さん以外のみんなが知っていた。後に聞いたことだが、名門野球部での5日間は「あきらめさせるため」の時間だったという。硬球との別れは突然だった。

あの日から長い時間が過ぎた。諏訪部さんは一昨年、四十余年勤めた会社を定年退職した。孫も5人できた。今は、隣市の高校で軽作業の職を得て、週末は軟式の還暦野球チームでプレーしている。

甲子園を夢見た高校時代。先輩にしごかれ、きつい練習をこなした。「やる」というより「やらされている」日もあった。それでも毎日、当たり前のようにグラウンドに出て、ボールを追いかける「明日」が来た。だが、当たり前の「明日」は突然、来なくなる。硬式野球を続ける道は、ひとつ年をとるごとに狭くなる。今、グラウンドにいる選手たちも、いつかはそんな日と向き合うことになるのだろう。

「だから、今の一瞬を真剣にプレーしてほしい。楽しんでほしい。真剣にやるから楽しめる。それは、高校野球も還暦野球も同じです」

24日、春の県大会が始まった。三島南は25日の初戦で、島田工を9-2、7回コールドで破り、29日の準々決勝進出を決めた。新緑の静岡に響く球音。諏訪部さんの“夏”は、忙しくなりそうだ。【秋山惣一郎】(この項おわり)

◆諏訪部孝志(すわべ・たかし)1958年(昭33)、静岡県三島市生まれ。三島南野球部では捕手で2年時からレギュラー。75年夏の静岡大会で16強。18年から同校野球部OB会長。現在は同県熱海市の高校に非常勤労務職員として勤務。