ロッテ佐々木朗希投手(19)が希代の快速球を投げ、岩手・大船渡高で仲間たちと甲子園を目指した最後の夏から、2年が過ぎた。震災と「あの夏」を越え、故郷を巣立った彼らは今、何を思うか。当時のチームメート5人を訪ねた。

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大和田健人さん(20)には大事な友人たちがいる。今は、心の中にいる。

中学2年の時だった。頭痛に襲われ、視界がかすんだ。打撃練習はほとんど勘で振った。病院での診察結果は脳腫瘍。「丈夫な子に産んであげられなくてごめん」。母の言葉や、父の心配そうな表情は今でも覚えている。絶対に治して元気になる、と誓った。

病床で友達ができた。サッカー少年の男の子と、いつも笑顔の入院6年目の女の子。3人でトランプをしたり、売店まで散歩したり、つらい闘病生活を支え合った。大和田さんは5カ月の闘病の末、再び日常生活に戻れるようになった。

大好きな野球に打ち込んだ。身長は160センチ。高校では190センチのエースに負けぬよう技術を磨いた。仲間たちは「ストイック」と表現する。伸びのある直球と制球力を武器に、背番号11で最後の夏に臨んだ。

初戦の遠野緑峰戦。花巻球場は早朝5時から入場列が伸びる“朗希フィーバー”に包まれた。エースは2回で役目を終え、大和田さんが2番手として3イニング5奪三振で締めた。

少し落ち着きだした空間で、大和田さんが投げる姿に涙する女性がいた。試合後に母から聞かされ、胸がいっぱいになった。

「男の子のおばあちゃんが花巻球場に見に来てくださって。僕がまた野球をやっている姿を見て、泣いて喜んでくれたみたいで」

自分が退院した後、男の子も女の子も亡くなったと聞かされた。2人の分も懸命に腕を振った夏から2年。今は新潟大で野球を続け、8月に20歳になった。

「小さい時に震災で親戚を亡くしたり、一緒に闘病した友達を亡くしたり。命があることは当たり前ではないと身をもって知りました。命がある今を大切に生きたいですし、亡くなった2人のためにも自分にできることを探して、社会に貢献していきたいです」

別れ際、正面から切り出された。「わざわざ新潟までお越しいただいて、ありがとうございました」。日本海の夕日に照らされる表情は、立派に歩く青年のものだった。(つづく)【金子真仁】

19年岩手大会決勝で敗れ整列する佐々木朗希ら大船渡ナイン
19年岩手大会決勝で敗れ整列する佐々木朗希ら大船渡ナイン