12年1月、籾山幸徳さん(36)さんはジャイアンツアカデミーコーチに就任した。午前中はデスク業務、午後はスクールの子供たちを指導。12月にはジャイアンツジュニアのコーチとして、12球団ジュニアトーナメントに参加した。当時、ドラゴンズジュニアにいたのが、根尾昂(中日)だった。

11年3月、巨人時代の籾山
11年3月、巨人時代の籾山

「根尾君は、あの時からすごかったですね。教え子でプロに行った子はいないですけど、甲子園には何人も出ています。ヤフーニュースとかにも出てて、『おー、あの子や』って。そういう喜びはあります」

アカデミーでの指導も1年半が経過したころ、新たに立ち上げるフランチャイズスクールのマネジャー就任の打診を受けた。迷ったが、指名されたことを意気に感じ、引き受けた。

子供たちの笑顔、成長する姿に喜びを感じた。ただ、野球以外の世界に興味を持ち始めていたのも、事実だった。11年7月に誕生した息子の父親として、どうあるべきか。将来を真剣に考え始めた時、プルデンシャル生命保険からライフプランナーとして、声を掛けられた。

「新たなことにチャレンジしたいなと。頑張ったら頑張った分だけの評価を受けるし、やらなかったら、それなりの評価。選手の時もそうでしたけど、能力に応じて、昇給があって、その制度に魅力を感じた」

14年6月末で退社し、7月にプルデンシャル生命保険に入社した。もともとは人見知りで、引退を決めた時は「将来的に営業の仕事をするなんて、全く想像もしてなかった」。不安は的中し、研修中からコミュニケーションの壁に直面。言葉が出ず、不安と焦りばかりが募った。

「どうしたら、いいんやろ…」。思い悩んだ時、手を差し伸べてくれたのが、同社へと誘ってくれた会社の先輩だった。中華を食べながら、自身の思いを吐露。じっくりと話を聞いてもらって、優しく背中を押されると涙がボロボロとほおを伝った。

弱い心と向き合いながら、苦手克服に励んだ。鏡の前に立ち、「ちゃんと笑えてるかな?」と表情チェック。普段からトークの練習を重ね、スキルを磨いた。人脈を生かし、たくさんの人と会った。話も聞いてもらえず、門前払いされたこともあったが、野球で培った忍耐力が支えだった。

「野球でも、トライ&エラーの繰り返しだったので、取り組み方や考え方は営業の世界でも同じやなと。どうすれば、自分の思いが伝わるかを考え、実践し、たくさんの方にお会いする中で変わっていけた」

積み重ねた経験は結果へと結び付いた。人見知りで、会話が苦手だった研修期間から見違えるように成長。1人1人に寄り添いながら、顧客に合ったベストなプランは何か。日々追求する中、1年目に年間の社内成績で表彰を受けた。年収は選手時代の270万円から約4倍に上がった。

2年、3年と年月はあっという間に過ぎた。仕事にも慣れ、充実した毎日だったが、ふとした時に野球のことを考える自分に気づいた。「仕事以外のところにも、何か時間を持っていけたらいいなぁ」。漠然と思い始めた頃、中学のボーイズリーグに所属する「高槻中央ボーイズ」の関係者から監督就任の打診を受けた。(つづく)

【久保賢吾】

◆籾山幸徳(もみやま・ゆきのり)1985年(昭60)4月10日、大阪・八尾市生まれ。天理、立命大を経て、07年育成ドラフト1位で巨人に入団。11年限りで引退し、ジャイアンツアカデミーコーチに就任。14年7月にプルデンシャル生命保険株式会社に入社。19年末に退社し、「NoriSuke」を起業した。現在は高槻中央ボーイズで監督を務める。家族は夫人と1男。現役時代は179センチ、80キロ。右投げ右打ち。