ロッテの谷保恵美さん(56)がZOZOマリンの場内アナウンサーとして、早ければ16日のソフトバンク戦で通算2000試合担当に到達する。野球人生の原風景には、5月に逝去した父直政さん(享年87)の姿が浮かんでくる。
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時は70年代、帯広。真夏になるたび、谷保家のテレビは少女によって占領されていた。連日流れる、高校野球の甲子園大会の中継。5歳下の弟、寿彦さん(50)が証言する。
「姉は1日4試合、朝から晩までテレビの前でスコアを付けていました。これ、わが家では普通で。家が菓子問屋なので、お菓子を食べながら。よく祖母に怒られてましたね」
姉は笑う。
「これが楽しいんですよ。朝8時に始まるじゃないですか。テンテレテンテレと。あの歌とともに1日が始まるんですよ」
スポーツ店でスコアブックを入手し、記入方法は独学で。途中から球種も付け始めた。
父はその頃、甲子園に導いた帯広三条高の監督を退任していた。家のテレビは父のチャンネル権発動に伴い、毎晩ナイター中継。「ドリフの土曜日以外は、子どもは8時に寝なさいっていう時代。平日は王さんが本塁打打ったら寝なさい、みたいな毎日でしたね」。
父は家業に励みつつ、高校野球地方大会のテレビ解説の仕事もしていた。事前取材へと、十勝エリアの各校に出向く。当たり前のように付いていく。「普通は親って、子どもの遊びに合わせて付き合ってくれるじゃないですか。じゃなくて、親の都合に合わせて私はくっついて歩いてたので」。窓を開けて、車でじっと待つ。練習の様子は車から見えたり見えなかったり。車内まで聞こえてくるカキンカキンの金属バット音は、40年以上たった今でもハッキリ思い出せる。
中学の教室で、女子たちは「たのきんトリオ派」と「荒木大輔派」に二分されていた。その中で。「荒木大輔さんを大好きな人がいっぱいいたんですけど、私はセカンドでキャプテンの、マリーンズで例えると(中村)奨吾選手のような選手をすごく応援してたんですよ」。昼休みに学校を抜け出し、近所で高校野球を見ることもあった。
「壁紙だけは女子っぽかった」(寿彦さん談)という自室に戻れば、本棚には週刊ベースボール、ドカベン、キャプテン…と野球文献がずらり。自室の床に硬球が転がっていた理由は、姉にも弟にもいまだに分からない。その硬球とグラブで「弟にキャッチボールさせてた、みたいな」と姉は笑う。中学時代にもう1つ弟に「させていた」ことがある。思春期の彼女には、今の仕事の原点ともいえるアナザーワールドがあった。
【金子真仁】(つづく)