甲子園の決勝戦を迎えた。勝負の時…だが、湘南の雰囲気はちょっと違った。快晴だった試合前、ナインは球場の入り口で記念撮影をした。

 佐々木 修学旅行の生徒みたいだったね。その横を相手の岐阜ナインが通った。「いざ、決戦」みたいな面持ちでね。

 岐阜は前年も甲子園で4強に入っている強豪だった。

 佐々木 こっちは勝とうなんて気がないんだから。ここまでくれば十分だよ、みたいな感じで。

 リラックスして決勝の舞台に立った。

 3回までに3点を許したが、4回に反撃を開始した。6番宝性一成が安打を放ち二盗を決めた。続く7番佐々木が、左中間に適時二塁打を放って1点を奪った。6回にも宝性-佐々木のラッキーボーイ・コンビが敵失を誘い、1番岡本英二のスクイズも決まり、そろってホームを踏んだ。同点に追い付いた。

 さらに8回。先頭の宝性が左前打で出塁し、佐々木に打席が回った。同点で迎えた終盤のチャンスである。当然、送りバントを予想した。しかし、父で監督の久男のサインは「打て」だった。

 佐々木 私が乗っているのをおやじが見抜いたんでしょうね。センター前にヒットを打った。

 この後、捕逸と内野安打で宝性と佐々木が生還し、勝ち越した。宝性が3得点、佐々木が2得点。2人で全5得点を奪った。

 創部4年目の新興チームが、参加1365校の頂点に立った。関東勢の優勝は、1916年(大5)の慶応普通部(東京)以来33年ぶり。優勝旗が「久々に箱根の山を越えた」と言われた。当時は圧倒的な西高東低で、東日本まで広げても1928年(昭3)の松本商(長野)以来21年ぶりだった。

 ちなみに、甲子園期間は、全米水泳選手権で古橋広之進が世界新記録を連発。「フジヤマのトビウオ」として日本国民に勇気を与えた時期と重なる。

 優勝した翌日、夜行列車で甲子園をたち、小田原で普通列車に乗り換えて藤沢に戻った。夜が明けた頃、国府津駅で途中下車し、選手たちは旅館で風呂に入り、朝食を取った。だが、佐々木は「私は疲れ果てて、ずっと寝ていた」。

 藤沢駅前には、太平洋戦争でのシンガポール陥落(42年)以来のちょうちん行列ができた。

 佐々木 藤沢市民が全部集まったんじゃないかというぐらい人がいた。当時はオープンカーなんかないから、スパイクで市内の砂利道やらデコボコ道を歩いた。

 学校での報告会では疲労から青い顔をしていた。

 さらに翌日、鎌倉で祝勝会があった。今度はオープンカーでのパレードだと聞いて喜んでいたが、駅前にトラックが待っていた。

 佐々木 まあ確かにオープンカーではあるけど(笑い)。荷台に乗ったなあ。

 新学期が始まり、教室に入ると拍手で迎えられた。

 佐々木 私は勉強は中ぐらいだったし、足が速いから、運動会のリレーの選手ぐらいの評価だったのが、一躍クラスのヒーローですよ。みんなの私を見る目が、がらっと変わってね。

 休み時間のたび、級友が周りに集まり、甲子園での思い出話をせがまれた。

 佐々木 みんなに認められたのがうれしかったのを覚えている。ただ勝って帰って来たのではなく。なんだろう。自分で…ああ何となく心が大きくなってきたな、体が大きくなってきたな、そんな気がした。

 無口だった少年は甲子園で自信をつけた。(つづく=敬称略)

【斎藤直樹】

(2017年5月31日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)