新チームが始動し、佐々木は3番遊撃手となった。父久男は監督を退任した。1学年下には、衆樹資宏という剛腕が加わった。のちに慶大で戦後初の3冠王となる強打者でもある。

 2年夏は神奈川大会の2回戦で敗退した。佐々木が、衆樹を救援し、打たれてしまった。

 佐々木 3年生に申し訳なくてワンワン泣いたよ。

 2年秋から主将に就任した。前主将の根本功が、佐々木を推薦した。

 根本 信也は1年からレギュラーだったし、理論家だった。捕手以外はこなすし、野球をやるために生まれた男だった。

 秋季関東大会で、のちに西鉄で活躍する豊田泰光を擁する水戸商を下し、準優勝した。3年春はセンバツに出場したが、1回戦で長崎西に敗れた。

 佐々木 思い出、記憶が何もない。あっという間に負けた。どこに泊まったかも覚えてない。甲子園ではない。

 1年夏の記憶が強烈過ぎたのだろうか。

 最後の夏は、神奈川大会の準々決勝で敗れた。延長10回に中堅手がライナーを落とした。大会前、後援会からレギュラー全員に新品のグラブを贈られていた。

 佐々木 グラブの革ひもが緩んでいた。古い、使い慣れたグラブなら捕っていたと思う。何が幸いし、何が逆に作用するか分からないと、つくづく思った。

 この中堅手は、のちに東京医大の学長を務めた伊東洋だ。

 高校野球を終えた佐々木は、慶大入りを目指して受験勉強に励んだ。ところが、とんでもない事態が起きた。

 佐々木 8月の終わり、9月の初めかな。おやじが家を出て行ったんです。自分の母親と育ち盛りの男の子4人を残して、許せないですよ。母は苦労したと思います。

 湘南の野球部を創部当初から支えた父久男だが、経営する会社が傾き始めていた。

 佐々木 普通は男は戦争が終わって死に物狂いで働いて地盤を築いている。おやじは野球の監督なんてやって遊んでいたから仕方ない。

 1度は進学をあきらめ、社会人野球入りを決意した。だが、羽振りの良かった時代の久男に世話になったという、慶大野球部OBが訪ねてきた。佐々木に「試験に受かったら、4年間お前さんの面倒を見る」と言ってくれた。佐々木は勉強を再開した。英語の辞書で必死に単語を覚えた。

 佐々木 Aから始まって「もう覚えたから大丈夫」と破ってしまう。Bはちょっと多く、Cはめちゃくちゃ多い。でも、あの時に覚えた単語はいまだに覚えている。

 湘南には毎週、火曜考査という学力テストがあり、上位100人を廊下に掲示していた。

 佐々木 時々50番ぐらいに名前があった。これがうれしくて勉強していた。

 見事、慶大法学部に合格した。ちなみに佐々木の1学年上の脇村春夫は、受験に専念するため甲子園優勝後の2年秋に野球部をやめている。東大に進み、後に高野連会長を務めるのだが、慶大経済学部は不合格だった。当時の慶大は難易度が高かった。

 佐々木 たった2カ月だけど、死に物狂いで勉強した。あの時だけですけど、いい経験だったと思う。おやじには苦労させられましたが、甲子園で勝たせてもらったので、文句も言えないんだけど。

 今では笑みを浮かべて、余裕を持って当時を振り返ることができる。(つづく=敬称略)

【斎藤直樹】

(2017年6月1日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)