令和2年の3月11日は、センバツが消えた日になった。選抜大会を主催する日本高野連、毎日新聞社は、中止という苦渋の決断を発表した。

大会開催の是非が取りざたされるようになって以来、違いをずっと考えていた。95年、11年の大震災直後のセンバツと、今年の違いだ。

アマチュア野球担当になっていきなり直面したのが、被災だった。95年のセンバツは、ぎりぎりまで開催が危ぶまれた。甲子園のお膝元、兵庫・西宮市が被災。「とても野球どころではない」空気があった。それでも主催者は被災地の理解を得られるように日夜近隣を回り、運営面でさまざまな工夫を重ねて開催にこぎつけた。連日、取材をする中でも大会は開かれる確信があった。

今月4日、主催者はいったん「無観客での開催への準備を進める」と発表した。その際、95年の大会を仕切った日本高野連・田名部和裕元事務局長が「当時は、日常を取り戻せる、復興への支えになる、と好意的な見方もあった。ウイルス禍の今回は違う。大会をやろうとすれば、周囲の不安が大きくなる」と運営の難しさを語った。被災センバツとの違いを思い知った。

95年や11年の被災後も当然、開催に否定的な声はあった。だが大会に向けて練習に励む球児の姿に、かつての日常を思い起こし、共感してくれる人々がいた。だが今回は、家族や学校応援団を含めた観客を甲子園に入れず、開会式などの行事を取りやめ、ベンチの清掃など骨身を削っても、新型コロナウイルスを大会から閉め出せるかどうかがわからない。選手を守りきれる確信がなく、周囲の共感も得られない。苦しい、悔しい決断だったと思う。

ただ逆風を受けながらも、主催者は開催への努力を続けた。とてつもない困難と知りながらも、開催への道を最後まで探った。大会に参加するはずだった選手には、その違いをわかってほしい。気持ちが沈んでどうにも切り替えられないとき、そのことを思い出してほしい。

感染拡大がいつ終息するのか、先が見えない。だが通常の形で次の全国大会を迎えることができたとき、どれほど心が弾むだろうか。それを思い、ウイルスとの戦いが終わる日を待とう。【遊軍 堀まどか】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)