木内幸男さんの通夜、告別式でお経を上げた住職は、教え子だった。天台宗・東漸寺の吉岡賢眞さん(57)は、取手二が81年夏の甲子園に出場した際の二塁手。「恩師を送れるのはなかなかできないこと。一番の幸せです」。戒名の「常光院摂取球誉幸叡清居士」には「常総で光り輝き、摂取はいろいろな選手を取手に集めたこと。球誉は野球で県民栄誉賞。叡は深い考え」が込められた。

吉岡さんの世代は、間接的に全国優勝を導いた。84年にPL学園を破って優勝した際の二塁手、佐々木力さん(常総学院総監督)は「進路を決める中学3年生だったから、甲子園に出たブルーのユニホームにあこがれた」。石田文樹、吉田剛ら好選手が集まる土台となったという。「吉岡さんは2番打者で取手二のつなぐ野球を象徴していた」と記憶している。

歴史はつながり、巡る。 さらに時代をさかのぼる。告別式に参列した松沼博久さんは、西武で通算112勝を挙げた名投手だ。中学時代は軟式野球の遊撃手。「高校から硬式を始め、一番嫌いだったポジションの投手に。木内さんが将来を見越してくれた」。高校1年で右打ちから左打ちにも転向させられ、高校2年の秋に上手から下手投げの投手になった。ポジションも打法も投法も、変わった。「ショートだったらそこまで行けるはずがない」選手が、取手二OBで初めてプロで活躍できた。

当時の木内さんは30代で「まだ動けたし、守備も見せてくれた」という。高校3年の夏、70年は茨城大会3回戦で梶間健一(後にヤクルト)擁する鉾田一に敗れた。まだ取手二が弱かった時代。大会前の新聞取材に「3回戦ぐらいが目標」と答えると、木内さんに「何で甲子園と言わねえんだ」と怒られた。14年後に木内さんは全国制覇し、50年後に僧侶からプロ野球選手、2軍監督、コーチまで、多彩な教え子を残して世を去った。【斎藤直樹】

常総学院元監督の木内幸男さんの祭壇(2020年12月2日撮影)
常総学院元監督の木内幸男さんの祭壇(2020年12月2日撮影)