日本高野連の事務局長だった田名部和裕さん(75)が、任期満了で日本高野連理事を退任した。

関大から1968年(昭43)に日本高野連事務局に入り、93年に第6代事務局長に就任。95年の阪神・淡路大震災直後の大会を運営したほか、プロアマ、特待生など高校球界に関わる諸問題への対応に尽力してきた。

アマ野球記者の先輩から「ご本人がどう思われるかは別として、田名部事務局長という人は、スーパープロデューサーや」と教えられた。被災地の状況に気を配りながら、開催は困難と見られた95年センバツをやりとげた。大会の運営に腕をふるう姿を見て、納得した。

事務局長を退任し、05年から参事の立場になったあとも、仕事ぶりは変わらなかった。08年のセンバツに安房(あわ、千葉)が初出場。同校OBのX JAPANのリーダーYOSHIKIが、甲子園での観戦を熱望した。92年1月以来の3日連続公演を控え、大舞台で躍動する後輩から力をもらいたいという思いを日本高野連に伝えた。ただ、YOSHIKIは熱狂的なファンに支持される超大物スター。警備上の懸念で、生観戦はかなわなかった。

だが、後日談を聞いて驚いた。運営本部はYOSHIKI来場に備えた警備のシミュレーションを、極秘裏に行っていた。ぎりぎりまで策を練っていた。何もせずに、YOSHIKIに観戦をあきらめさせたわけではなかった。参事を退き、10年から日本高野連理事に就任。同高野連の70年史編さんという地道な仕事も完遂した。

その田名部さんが理事を退任する前年、新型コロナウイルス感染拡大による春夏の甲子園大会中止に直面した。開催中止を決めた八田会長、事務局の後輩たちの苦悩も、目の当たりにした。1年が過ぎ、2年ぶりに開かれたセンバツは無事に全日程を終えた。ただ感染者数は昨年の同時期をはるかに上回り、限界ぎりぎりで踏ん張る医療現場の苦闘が伝えられる中、大会関係者は最大限の注意を払いながら2年ぶりの夏開催への努力を続けている。

この状況下での大会の開催意義を聞いたとき、田名部さんは「日々の努力の結果を発揮できる場所を作って、高校野球をしっかりと終わらせてあげること」と語った。やりきったと思える場所を、球児のために作りたい。それぞれのゴールテープを、切らせてやりたい。完結は、未来につながる。「今年の夏は、今年しかないんやから」。今年は103回の夏。世紀をまたぐ大会を支えた先人の努力を見てきた人の、言葉だ。【遊軍=堀まどか】