夏の全国高等学校野球選手権の前身「第1回全国中等学校優勝大会」が1915年(大4)に始まって、今年で100年。今日から「北海道 百年の記憶-甲子園あの日、あの時」と題し、球史を彩った道代表の甲子園での名勝負を10回にわたって、当時の関係者の証言をもとに振り返ります。第1回は63年センバツ準優勝の北海。春夏通じて道勢初の決勝進出を決めた、早実(東京)との準決勝です。

 北海道高校球界の盟主が、春待ちわびる北の大地を熱狂の渦に包んだ。逆転に次ぐ逆転で日南(宮崎)、PL学園(大阪)、享栄商(現享栄・愛知)と全国の強豪を蹴散らして、迎えた早実(東京)との準決勝。二転三転と激しく動いた熱戦の中、2点ビハインドの9回2死、鍛え抜いた北海の“足攻”が花開いた。

 2死二塁から3番谷木恭平(立大-新日鉄室蘭-中日)の適時打で1点差に迫ると、すかさず谷木が、大会記録となる1試合5盗塁目を決めて二進。続くエースで4番の吉沢勝(巨人、現日本リトルシニア中学硬式野球協会信越連盟副理事長)が左打席に入る直前、相手投手が左から右投げにスイッチした。「僕は左打ち。おかげで、気持ちが楽になった」。思わぬ幸運に内心ほくそ笑み、フルカウントから、内角高めの直球を思い切り引っ張った。右中間へ、ぐんと伸びた打球を、右翼手と中堅手が懸命に追う。早実の外野手2人が、もつれ合って落球したのが目に入った。

 「攻撃が終わったら、また投げるなんていう感覚はなかった。無我夢中、これで試合が終わると思って走った」。逆転のサヨナラ2点ランニングホームラン。韋駄天(いだてん)ぞろいのチームにあって、100メートル走で1番を誇った吉沢の足は、勝利の瞬間まで止まらなかった。野球人生で、最初で最後のランニングホームランだった。

 終戦の年に生まれた吉沢は、北海野球の礎を築いた飛沢栄三部長に誘われ入学した。室内練習場など、ない時代。冬場は廊下や体育館でノックの雨が降り“板の間野球”とも呼ばれた。板の上で跳ねる打球は人工芝以上に速くなり「内野手の手は、いつも腫れていた」。秋口から雪が積もるまでは、札幌市豊平区内のグラウンドから、藻岩山山麓にある仏舎利の札幌平和塔まで走り、200段の階段を駆け上がる。「とにかく一番つらかったのは、走ること。走塁練習もよくやりました」と、70歳になった今でも思う。目指したのは、猛打ではなく、堅守速攻の洗練された野球。厳しい練習に、入学時に150人ほどいた同級生は、いつしか十数人になっていた。

 現在もユニホームの左袖に残る校章の北極星とSAPPOROの文字は、このセンバツから採用されたという。「周りからは『サッポロビールみたいだ』って言われたけどね」。決勝では下関商(山口)に敗れ準優勝に終わったが、道勢として史上初の決勝進出。札幌駅からススキノまで行われたパレードには10万人もの市民が集い、北海ナインをたたえた。(敬称略)【中島宙恵】

 ◆VTR 2点を追う9回、北海は2死二塁から、3番谷木の左前適時打で1点を返すと、続く吉沢の打球は右中間へ。早実の右翼手がいったん、打球をグラブに収めたかに見えたが、中堅手ともつれあって落球し、サヨナラの逆転ランニング2ランホームランとなった。4安打4打点の谷木は、1試合5盗塁の大会記録もマーク。完投したエース吉沢も2盗塁を決め、チームで10盗塁を挙げて逆転劇を演出した。

 ◆北海と甲子園 甲子園が球児の聖地となったのは1924年(大13)夏、第10回大会から。同大会の開幕試合で歴史的な第1球を投じたのが、北海中の手島義美投手だった。

 夏に限れば、松商学園(長野)と並び全国最多出場を誇る同校は、常に北海道の高校球界をリードしてきた。全国大会初勝利は22年夏。53年夏の慶応(神奈川)戦では田原藤太郎投手が相手打線を無安打に抑えながらも、0-2で敗れる悲劇もあった。両軍最少1安打の大会記録は、半世紀以上を経た今も破られていない。