名将が去り、高校野球の一時代が終わった。横浜が東海大相模に完敗した。この夏限りでの勇退を表明していた横浜・渡辺元智監督(70)が約半世紀にわたる指導者人生にピリオドを打った。今大会、驚異的な粘りをみせてきたが、東海大相模の最速150キロ左腕、小笠原慎之介投手(3年)を攻略できなかった。5度の日本一に輝いた名将は「高校野球は自分の人生そのものだった」と言い、今後は横浜高校野球部終身名誉監督として見守っていく。

 名将の夢は、最大のライバルの前に砕け散った。横浜・渡辺監督が、6度目の全国制覇を目標に挑んだ最後の夏。東海大相模に完封負けを喫し、幕を閉じた。「選手に感謝。その一言です。例年になく熱い、熱い戦いを1回戦からやってきた。選手は勝利をプレゼントしてくれようとして、そういう気持ちでやってくれた。感謝しています」。3度宙に舞った後、選手への感謝の思いを口にした。

 7試合を勝ち上がり、最後の敵は東海大相模だった。観衆は3万人の超満員。6度目の決勝戦は3回まで両軍無得点だったが、4回に試合が動いた。決勝進出の原動力となった石川達也投手(2年)が2巡目でつかまった。守備の乱れが出て、5安打を浴び3点を奪われた。

 それでも、ベンチにいる渡辺監督は、ほほ笑むような表情で選手を見ていた。「練習は勝つためにとことん厳しくやるが、試合で萎縮したらだめ。楽しくだよ」。エース藤平尚真投手(2年)を投入しても猛打を止められず、7回には4点を奪われた。昨年亡くなった原貢氏(享年78)が指揮した時代からの宿敵。昨年は準決勝で敗れ「打倒相模」を合言葉に1年間を過ごしたが、小笠原の前に7安打0封負けを喫した。

 けがで野球を諦めかけたところから始まった、指導者人生だった。73年にセンバツ初優勝を飾り、27度甲子園に出場。激戦区神奈川を作り上げた「父」でもある渡辺監督の思いはいつもこうだった。「神奈川に大優勝旗を持って帰りたい」。県内の監督と交流を持ち自らの経験を惜しみなく語った。その中の1人に、東海大相模・門馬敬治監督(45)がいた。試合後、インタビュールームに訪れた“後輩”と握手を交わした。「神奈川のために頑張れ」。言いながら、涙があふれた。バトンを渡した瞬間だった。

 グラウンドを離れる実感は、まだない。「うちに帰って女房と1杯やったら、終わったって感じるかな」と笑った。ポケットには今も、練習で気になったことを書き留めるためのメモ帳が入っている。情熱の炎はそう簡単には消えそうにない。「白いボールを追いかける中に、人生がある。高校野球は自分の人生そのもの。あっという間の50年。高校野球に携われて幸せでした」。勝負師は、穏やかな笑みでラストゲームを締めくくった。【和田美保】

 ◆渡辺元智(わたなべ・もとのり)1944年(昭19)11月3日、神奈川県生まれ。横浜高では3番中堅手。3年夏は県4強。神奈川大に進学後は右肩を痛め野球を断念した。65年から母校コーチを務め、68年に監督就任。その後、関東学院大で社会科の教員免許を取得。98年には松坂大輔投手(34=ソフトバンク)らを擁し甲子園春夏連覇、国体も制し史上初の3冠を達成した。家族は紀子(みちこ)夫人と2女。