第100回全国高校野球選手権記念大会(8月5日開幕、甲子園)の宮城大会が14日に開幕する。「白球にかける夏」第5回は、被災した南三陸町の思いも背負って戦う志津川を特集する。仮設住宅があったグラウンドを改装し、4月からは全面使用が可能となった。打撃や外野守備練習が制限なく出来る一方、常に見守っていてくれた“応援団”がいなくなった寂しさもある。復興への象徴となるべく、74年の志津川旋風を再現してみせる。

 南三陸町を見下ろす高台にあるグラウンドに球音が鳴り響く。志津川野球部OBでもある佐藤克行監督(40)は「全面を広く使える喜びはあるんですけれど、日頃からコミュニケーションをとることが当たり前だったのでね」。遠くに飛ばす打撃練習を見つめながら、複雑な表情を浮かべた。

 震災直後から、グラウンドの約半分(内野とレフト部分)に仮設住宅が設置された。限られたスペースを陸上部やサッカー部と共有。打撃練習は室内練習場。守備練習も内野中心で、外野守備は制限があった。当初は打球音や安全面から不満の声が出たことも事実。野球部は3年生が引退すると、仮設住宅を回り御礼のあいさつ。住民も次第に駆け回る姿に元気づけられ、試合当日には朝早くから小旗を振って激励するほど、良好な関係だった。

 昨秋、仮設住宅は完全撤去された。砂利や雑草を取り除いて黒土を入れ替え、4月5日に野球場が復活。志津川地区出身のエース菅原拓也(3年)は「私立からの誘いもあったけれど、ここで野球がやりたかった」。下半身強化のため、津波による甚大な被害にあった町を毎日走るのが日課。「車を止めて『頑張れ』って声をかけてくれる方もいる。ピンチになっても『町のみんなのために』と思え、精神的には強くなれている」と感謝の念を抱く。

 1年秋の「復興試合」で仙台育英と対戦し、0-39と大敗した悔しさも発奮材料だ。しかも、本来なら2試合の予定が、強制終了。「あれ以来、育英とやる試合を見てもらうことを目標にしてきた。最後のチャンス」。対戦する決勝まで負けるつもりはない。愛称「志高」の名のように志高く、創部3年目の74年夏に東北大会に出場し、甲子園まであと1歩と迫った「志津川旋風」の再現に挑む。

 夕暮れの練習最後、全員で校歌を歌うのが恒例だ。木皿和輝主将は「仮設住宅の子どもたちも一緒に歌ってくれていたんです。県大会だけでなく、甲子園で一緒に歌えたら最高です」。部員19人の声に導かれたのか、地域住民に変わって左翼後方から、カモシカが見守っていた。【鎌田直秀】

 ◆志津川 1924年(大13)創立。普通科、情報ビジネス科がある。生徒数は201人(うち女子86人)。野球部は1972年(昭47)に創部し、74年夏には決勝まで進み、東北大会出場。現在は1、2年生部員7人で、今季は合同チームでの出場危機。所在地は南三陸町志津川字廻館92の2。葛西利樹校長。