第92回選抜高校野球(19日開幕、甲子園)に21世紀枠で出場する磐城(福島)は、過去に夏7度、春2度の甲子園出場を誇る古豪だ。71年夏は初戦(2回戦)で日大一(東京)を撃破すると、準々決勝で静岡学園、準決勝で郡山(奈良)を下す快進撃。決勝で桐蔭学園(神奈川)に0-1と惜敗したが、準優勝と大旋風を巻き起こした。5番右翼手だったOBの松崎浩さん(66=保険代理店経営)が当時を振り返るとともに、後輩たちに熱いエールを寄せてくれた。

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「あの夏」から49年がたとうとしているが、松崎さんの記憶は昨日のことのように鮮明だった。桐蔭学園との決勝戦。0-1で迎えた9回表1死二塁、右アンダースロー大塚の外角低めの直球を捉えた。いや、捉えたつもりだった。「打った瞬間、センター前に抜けたと思った」。しかし、結果は投ゴロ。雨でグラウンドがぬかるんだ影響で打球の勢いが消され、同点打が幻になったと思っていた。「後でビデオで見たら完全に打ち取られていましたよ(笑い)」。思い違いは悔しさの裏返しだった。

試合日の朝食はいつも豪華だった。決勝朝はステーキとトンカツ。しかし、慣れない食事は逆に苦痛だった。「完食しないと監督に怒られるから必死で食べた」。決勝戦後の食事も忘れられない。「負けて戻ったら急に粗食になってね。納豆とかタクアンとか、普段のメシに戻ったのがうれしくて。みんなで『おいしい、おいしい』って、おかわりしながら食べたよ」とどこまでも素朴なチームだった。

決勝から2日後、勿来駅からパレードが行われた。20万人とも言われる市民から熱烈な歓迎を受けた。「沿道の人を見て、それまでは自分たちだけでやっていた感じだけど、『応援してくれる人がいて磐城高校があるんだな』と気付きました」。その思いはずっと受け継がれてきた。

練習は厳しかった。入学時40~50人いた同期が、最後は10人以下になった。しかし、決して「選ばれし者」ではなかった。「最後に残るのは鈍くさい選手。うまいのは『なんでこんな厳しい練習しなきゃならないんだ』って、バカらしくなって辞めちゃうんだよ。勉強した方がマシってさ。へたくそは練習しなきゃダメだから残るんだよ」。走塁練習でも無駄なくベースを回ることを徹底され、ひたすら反復した。スライディングではお尻の皮がベロベロにむけた。つらくて逃げ出したこともあった。

猛練習が実を結び、2年夏に甲子園に出場したが、最終学年は春に地区大会で敗れた。しかし夏を前に165センチの小さな大投手、田村隆寿氏(67)が急成長した。「コントロールが良くなったし、右打者のインコースに落ちるシュートも決まりだしてね。守備はもともとエラーをしないチームだったので、スキがなくなってきたんだよ。1試合1試合強くなっていって、ゾーンに入るような不思議な感じだったね」。

95年夏以来の甲子園に、自然と力が入る。「今のチームも試合ごとに良くなってきた。投手を軸に守りが良くなってきたのは、当時と似ている」。新型コロナウイルスの影響で、無観客試合を前提に準備を進めることが決まった。「応援に行きたかったけどしょうがない。公立校は試合で強くなるから、初戦に勝ったら面白い。前代未聞の状況でやるのも、プラス思考でいい方向につなげてほしい。観客がいなくても公式試合。相手を倒すという意気込みでやってほしい」とエールを送った。【野上伸悟】

◆松崎浩(まつざき・ひろし)1953年(昭28)10月13日、福島・いわき市出身。平二中から本格的に野球を始める。磐城では2年夏と3年夏に外野手で甲子園出場。早大では準硬式野球部で4年時に日本一。卒業後は4年間のサラリーマン生活を経て、いわき市内で保険代理店を営む。左投げ左打ち。167センチ、53キロ(当時)。