全国高校野球選手権大会の代替となる埼玉県独自大会の決勝がメットライフドームで行われ、狭山ケ丘が昌平を破って初優勝を決めた。監督歴3年目で夏2度目の平沢智太郎監督(29)は帝京高校時代、日本ハム杉谷と二遊間を組んだ。母校の東京制覇を刺激とし、快挙を成し遂げた。

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4度、宙を舞った。平沢監督はナインたちからの胴上げに目を真っ赤にさせ、「選手たちと毎日厳しく関わり、いろんな時間を過ごせたというのがよかった。選手の頑張りには本当に頭が下がる」とたたえた。

埼玉でも“帝京魂”だ。高校時代は1年夏、2年春夏と甲子園を経験したが、いずれもベンチ外。3年春には背番号4をつけたが、夏の選手権前の練習試合で自打球を左足すねに当てて骨折。背番号20で臨んだ最後の夏は、東東京大会4回戦で敗退した。「背番号をもらった年に甲子園に行けなかった悔しさをモチベーションにしていました」と振り返る。18年秋から狭山ケ丘の指揮を執り、監督人生がスタート。「私の練習は賛否両論あったと思う。厳しすぎるとか、つらすぎるとか。ナンバーワンになるためには厳しさも大事なんです」。礎にあるのは、恩師の帝京・前田三夫監督(71)の存在。自分自身の高校時代のように…。猛練習でチームを押し上げた。

母校は今夏9年ぶりに東東京を制覇。試合はテレビで見守った。「素直に勉強させてもらった。強い時代の帝京の野球かなと。これを目指そうというのは私の中であった」と刺激を受けた。「次に続くのは俺だ」と強い決意で埼玉大会を戦い抜いた。

夏の甲子園が中止となり、聖地での試合は幻となった。それでも「残念な思いはあるけど、2回メットライフドームで試合ができた。選手たちも幸せだったのではないか」と穏やかに話した。

強豪ひしめく埼玉の頂点に立ったが、恩師に報告するかどうかは考え中だ。「『ここで満足して電話をかけてくるな』と言われそうで」と笑った。ここまで強くなった3年生たちを誇りに、聖地を目指す戦いは続く。【湯本勝大】

◆平沢智太郎(ひらさわ・ともたろう)1990年(平2)10月25日生まれ。東京都足立区出身。帝京から仙台大に進学。現役時代は内野手。高3時の春季大会は7番二塁でレギュラー。日本ハム杉谷と同期。18年秋に狭山ケ丘監督に就任。監督歴3年目で埼玉大会制覇。175センチ、75キロ。右投げ右打ち。

◆狭山ケ丘高校 1960年(昭35)創立の私立校。野球部も同年創部で部員60人。13年から付属中学も開校。生徒数は1073人。主なOBに俳優で振り付師の竹下宏太郎、お笑い芸人のハマカーン浜谷ら。所在地は埼玉県入間市下藤沢981。小川義男校長。

○…埼玉大会の表彰式で、県高野連がこの大会用に特別に作製した赤い優勝旗が、坂上節(たかし)会長から、狭山ケ丘・正高奏太内野手(3年)に手渡された。また、試合前には準決勝、決勝の開催場所としてメットライフドームを提供した西武球団に対し、県内160校、148チームの主将からのメッセージ入りパネルが、お礼として県高野連から贈呈された。

◆表彰 日本高野連などが高校野球の育成と発展に尽くした功労者に贈る「育成功労賞」に、埼玉県から選出された大内洋八州(ひろやす)氏(58、杉戸)の表彰式が決勝前に行われた。