高校野球の取手二、常総学院(ともに茨城)の監督として、春1度、夏2度の甲子園優勝を果たした木内幸男氏が24日午後7時5分、肺がんのため茨城・取手市内の病院で死去した。89歳だった。葬儀・告別式は30日の予定で喪主は娘婿の岡田誠(おかだ・まこと)氏。

名将が旅立った。がんが全身に転移した木内氏は自宅で闘病を続けていた。今月上旬の入院が決まり、家族が「病院に入ったら出て来られない。今のうちに会いに来てください」と教え子たちへ連絡。肺に穴が開き、かすれ声で言葉がうまく出てこなかったが、駆け付けた人たちに励ましの言葉を伝えたという。最近は、見舞いの人にもたれかかるようにして相手の胸に指で字を書いていた。

茨城・土浦市生まれ。56年から取手二を指導し、84年夏の甲子園では桑田、清原を擁するPL学園を倒し優勝した。同年9月に常総学院に移り、01年センバツ優勝。03年夏も全国優勝した。大会後に勇退したが、07年秋に監督復帰。80歳の11年夏まで務めた。甲子園に22度(春7度、夏15度)出場し、通算40勝(19敗)は歴代7位を誇る。

小技や機動力を駆使した野球が特徴だった。絶妙なタイミングで起用した代打や継投が成功することも多く“木内マジック”と呼ばれた。もっとも、正体は魔法ではなかった。勝ちにこだわり、普段の練習から選手の一挙手一投足を洞察。性格や特長を見抜いた起用だから成功率が高かった。

一線を退いてからも、茨城弁で野球を熱く語っていた。教え子でプロに進んだ選手は、元阪神監督の安藤統男氏、松沼博久氏、雅之氏の兄弟、現常総学院監督の島田直也氏、DeNA2軍新監督の仁志敏久氏、日本ハムコーチの金子誠氏らがいる。

◆木内幸男(きうち・ゆきお)1931年(昭6)7月12日、茨城・土浦市生まれ。土浦一では中堅手で主将。卒業後は慶大進学を断念し、母校コーチに就任。53年監督就任。56年取手二に移り、84年夏の甲子園でエース石田(元横浜)遊撃吉田(元近鉄)を擁し、決勝で清原、桑田のPL学園を下し優勝。同年9月に常総学院監督に就任。01年センバツ優勝、03年夏も全国優勝。大会後に勇退も05年秋に総監督、07年秋に監督復帰。11年夏に勇退した。

◆甲子園の高齢V 木内監督は72歳1カ月で迎えた03年夏の甲子園で優勝。優勝監督の年齢では戦後最年長だった。最後に出場した09年夏は78歳0カ月。

専大松戸・持丸修一監督(常総学院で木内氏が監督を離れた03年秋~07年夏に監督)「私が学生のころから監督をされていた。どんな時も勝ちにこだわり、絶対に勝てるチームを作る。これでまた、昭和の名物監督が亡くなった。寂しいですね」

坂克彦氏(03年夏の甲子園で優勝。元近鉄、楽天、阪神)「入院していたのを知っていたので覚悟はしていましたが悲しいですね。僕の野球人生の原点です。木内監督がいなければプロにも行けていません。(03年も)そこまで細かく言われなかった。野球は答えがない、自分でどうするか考えなさいということを伝えてくれたのだと思います」