宇和島東、済美(ともに愛媛県)の2校をセンバツ初出場初優勝に導き、ヤクルト岩村明憲内野手(35)広島福井優也投手(26)ら多くのプロ野球選手を育てた上甲正典監督が2日午前9時15分、胆管がんのため愛媛県東温市内の病院で死去した。67歳だった。病のことは口外せず、闘病生活を送りながら、今夏の県大会を指揮したが、甲子園大会期間中の8月中旬に症状が悪化し入院。帰らぬ人となった。

 上甲さんを乗せた車は家族の希望で済美の野球部グラウンド、そして激闘を繰り広げた坊っちゃんスタジアムを回った。スタジアムでは、夏の甲子園大会歌が流れ、球場の配慮でプレーボールのサイレンが鳴らされた。学校に戻ると教員、関係者が号泣。同校の永井康博教頭によると、1日の始業式で「監督が病気と闘っている」と生徒に報告したが、その翌日に帰らぬ人となった。

 昨年の秋季大会後に体調を崩し年明けまで入院。だが、がんであることは口をつぐんだ。30年来の付き合いである明徳義塾の馬淵史郎監督(58)にも告げなかった。「最後に馬淵君に会いたい」と知らされ、見舞ったのは8月26日。ベッドの上甲さんは背中を向けたまま。顔を合わせることなく1時間半、思い出を語り合った。「30年が一気に頭をよぎった。つらかった。心にぽっかり穴があいた」と馬淵監督。背中をさすり病室を後にしたという。

 薬局を経営しながら母校宇和島東高の監督に就任し、87年夏に甲子園初出場。翌年センバツで初出場初優勝。その後も「牛鬼打線」と呼ばれる強力打線で計11度出場。01年に最愛の妻節子さん(享年52)を亡くしたショックで夏の大会後に辞任したが、生前「監督をしているあの人が好き」と語っていたことを知り、その秋に創部した済美高の監督に就任。04年に初出場初優勝を果たしたセンバツ決勝では9回に「節子勝たせてくれ」と祈った。

 今秋ドラフトの目玉、安楽を擁するも今夏は甲子園に届かず。それでも7月には「来年は必ず甲子園」と意気込んでいたが、8月にカメムシを食べさせようとした部内いじめが発覚すると体調を崩し入院。安楽の進路は見届けられなかった。最後は「生徒の顔を見たい」と話していたが、もう会える状態ではなかった。箕島高の故尾藤公監督を慕っての上甲スマイルは、もう見られない。名物監督がまた1人いなくなった。

 ◆上甲正典(じょうこう・まさのり)1947年(昭22)6月24日、愛媛県三間町(現宇和島市)生まれ。宇和島東高時代は5番遊撃手。龍谷大卒業後は三和金属、村上戸井と野球から離れ、薬種商の資格を取り、75年に上甲薬局を開店。76年に宇和島東の監督に就任。88年センバツで「牛鬼打線」を率い初出場初優勝。01年10月、済美の監督に就任し、04年センバツで創部3年目で優勝。原貢監督(三池工、東海大相模)木内幸男監督(取手二、常総学院)に次いで2校を優勝に導いた。甲子園通算17度出場で25勝(歴代21位)。01年に妻節子さんを病で亡くした(享年52)。