ベーブ・ルースは12度もの本塁打王に輝いたインパクトが強すぎて、投手の印象は薄いかもしれません。投手で活躍したのは、資料も映像もあまり残っていない100年以上も前。ただ、歴史的な評価では、投手一本でも殿堂入りは確実だったということです。

まず、投打ともタイトルを獲得したのは、後にも先にもルースだけです。1916年に防御率1・75で初受賞。9完封を含む23勝を挙げ、当時最強右腕と称されたウォルター・ジョンソンとの投げ合いでは、4勝1敗と圧倒しました。18年は第1次世界大戦の影響で126試合の短縮シーズンでしたが、11本塁打で打撃初タイトル、投手でも13勝。その投打2ケタの偉業に、大谷が肩を並べました。

投球スタイルも知りたいところですが、確固たる資料はありません。ただ証言などから、持ち球は主に速球とカーブのみ。最速も当時では平均を少し超える程度の137~142キロぐらいで、むしろ軟投派だったようです。ジョンソンは最速98マイル(約158キロ)とも伝わりますが、スピードガンがない時代で、速球の平均は90マイル(約145キロ)程度だったと思われます。

また、ルースは通算1221回1/3を投げて、許した1発は10本のみです。被本塁打率はジョンソンの半分で、「飛ばないボールの時代」を差し引いても、攻略の難しい左腕でした。勝率6割7分1厘(94勝46敗)、防御率2・28はいずれも歴代20傑(1000投球回以上)入りしており、卓越した投球術の持ち主だったと想像できます。

豪快なアーチで時代を明るく照らした一方で、陰もありました。7歳頃から不良少年を矯正する施設で過ごし、そこから当時破格の契約金2900ドルでレッドソックスに引き取られました。チーム一の大男で、声は大きく、気性も荒かったと伝わります。人との接し方を知らず、「オリから出た動物」「育ちすぎたグリーンピース」と、散々な評判もありました。19歳で入団してすぐ、16歳のウエートレスと結ばれましたが、前妻は別居中に火事で亡くなる悲劇もありました。

34年の日米野球から帰国後、待っていたのはヤンキースからの解雇通告。当時ボストンにあったブレーブスで最後1年を過ごし、寂しくユニホームを脱ぎました。引退後はヤ軍監督を熱望しながら電話が鳴ることはなく、48年に咽頭がんで53歳で死去。遺体はヤンキースタジアムに安置され、10万人ものファンが弔問に訪れました。

今季成績で見れば、大谷は18年のルースより本塁打、安打数、奪三振などでは上回ります。また、盗塁も2ケタに乗せており、走攻守(投)の異なる3部門で「トリプルダブル」達成。また、打席と投球回で前人未到の「ダブル規定到達」も狙えます。史上最強の二刀流シーズンとして、永遠に語り継がれていくはずです。【大リーグ研究家・福島良一】

アスレチックス対エンゼルス 試合前、大谷を応援する子どもファン(撮影・狩俣裕三)
アスレチックス対エンゼルス 試合前、大谷を応援する子どもファン(撮影・狩俣裕三)
アスレチックス対エンゼルス 7回表エンゼルス無死、ソロ本塁打を放ち、レンフィーフォ(手前)とタッチを交わす大谷(撮影・狩俣裕三)
アスレチックス対エンゼルス 7回表エンゼルス無死、ソロ本塁打を放ち、レンフィーフォ(手前)とタッチを交わす大谷(撮影・狩俣裕三)