エンゼルス大谷翔平投手(28)が、近代メジャーで史上初めて、同一シーズンで規定投球回、規定打席に同時到達した。日本のプロ野球でドラフト制後唯一、両部門で規定に到達した経験を持つ畠山準氏(58=DeNA球団職員)に、難しさなどを聞いた。

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NPBで投打の規定到達した経験を持つ畠山氏だが、大谷の偉業には脱帽した。「すごいと思う。両方を同時進行で。僕は最初に投手で規定に到達し、野手に転向して規定打席に到達した。同時ではないので雲泥の差だと思う」とたたえた。畠山氏は投手として南海に所属した84年、打者として横浜で93、94年に規定に到達している。

ドラフト制後、投打で規定到達は、NPBでは唯一の存在だ。「野手で規定到達した時は知らなかった。現役をやめてから、ウィキペディアを見て知りました。僕はそんなに話題にならなかったし。石井琢朗が(投手で)1勝していて(打者で)2000安打を打った。これは話題になりましたけど」。ドラフト制以前には西沢道夫、関根潤三ら投打で活躍した選手もいたが、時代が進むにつれ、姿を消していた。

日米の野球の差にも言及した。「大谷くんの何がすごいか。100球という球数制限がある中で規定投球回に到達した。僕らは球数制限がなくてイニングが稼げた」。畠山氏はプロ2年目に規定投球回に達した。主に先発として登板し32試合で5完投。先発の合間には、救援でも9試合に登板している。5勝12敗、防御率は16位の4・24だった。

1984年当時、まだ投手の分業も完全ではなかった。「先発しても、中何日かでリリーフしていました。平和台のダブルヘッダーで中継ぎに入って、2試合目の最後に投げました。でも、2試合あると、ブルペンで完投するぐらい投げるんです」。8月26日に平和台の日本ハム戦に救援で投げた後、中2日で同29日の大阪でのロッテ戦で先発している。そこから中2日で9月1日の近鉄戦には救援。さらに中3日で西武戦に先発。また中2日で秋田市八橋でのロッテ戦に救援している。現代では考えられない起用法だが、それが変だとも言い切れない時代だった。

投手として、規定投球回到達は目標だった。「当時は130イニング。初めての時はうれしかった。それだけイニングを投げられて、ちょっと一人前の投手になれたのかなと。勝ち星は少なかったけど、(投手コーチの)河村英文さんには『防御率を頑張れ』といわれていました」。9月8日に初めて防御率が4点台に落ちたが、そこまでは3点台で粘っていた。

「やまびこ打線」池田高(徳島)の主砲として82年、夏の甲子園で優勝した。「投打二刀流」という言葉もない時代、4番エースは珍しくなかった。最速148キロの投手としてドラフト1位で南海(現ソフトバンク)に入団。「パ・リーグは指名打者だし、打つことは考えていなかった。練習もしていなかった」。エースを目指した。

高卒1年目、ジュニアオールスターではMVPを獲得し、1軍で7試合に投げた。2年目に規定投球回到達。前途洋々の3年目がターニングポイントになった。春季キャンプ中、みずぼうそうに罹患(りかん)し、約1カ月離脱した。急ピッチで開幕に間に合わせたが、肩を痛めた。腕を下げるなど工夫して1勝を挙げたが、投手生命が終わりに近づいた。

投手を続けていく上で、何が大変だったか。「僕の場合は大谷君とは比べものにならない投手だった。ストライクを取ることに、ひーひー言っていた。コントロールが悪かった。(規定投球回に達した)2年目のいい時でも、真っすぐで抑えきれないので、スライダー投手だった。いい時はスライダーをボールにしたりストライクにしたりと、出し入れできた。でも(スタイルを)確立できなかった」。直球で勝負できる球威、安定した制球力を身に付けることができなかった。

6年目に打者に転向した。投手に未練はなかった。「踏ん切りはついていた。投げてもだめだったので」。打撃も守備も走塁も「何もかも素人だった」。大みそかも元日もバットを振った。技術だけでなく、肉体改造も余儀なくされた。「プロでは5年間バットを振っていなかった。野手は筋力が必要でウエートトレーニングをかなりやりました」。池田高といえば、筋力トレーニングのイメージが強いが「本格的ではなかったです」。野手は持久力やしなやかさより、瞬発的な筋力が求められる。

大阪球場の横にあったウエートトレーニング場で、プロレスラーに交じって体を大きくした。野手転向には肉体改造が必要だったからこそ、投手と野手を同時にこなす大谷には「信じられない。30本以上打って先発で2桁勝つ。漫画の世界でしょう」と驚きを隠せない。

南海からダイエーと球団が変化し、福岡に移ったが、打者転向3年で自由契約となった。91年に大洋(現DeNA)へテストで移籍した。移籍初年度に、打数が69と少ないながらも打率3割をマーク。2年目には2桁本塁打を放った。

球団が大洋から横浜に代わった93、94年には規定打席に到達した。「少し(打撃が)分かりかけた。感覚でしょうね。ボールを見る視点を変えた。打ちたくて向かっていく。行くんだけど引くという感覚。150キロでも160キロでも、速い球に対応できる。ボールが長く見られる」。コツといえる個人的な感覚をつかんだ。

野手転向から6年が経過していた。「頑張ったけど打率3割には届かなかった(2割8分1厘)。目標にはなってましたが。JCB・MEP賞を取ったことは覚えている。勝利打点が一番多くて。もうちょっと打率を上げたかったのは本音ですけど」。オールスターにも選出され、打者としては一流選手の仲間入りを果たした。

現在、球団では振興部で、子供たちに指導も行っている。「夢のある子供が出てくるのは楽しみだし、見てみたい。その中で野球の楽しさを教えたい。昔の少年野球はみんな4番投手だった。そんな感覚でずっといけば、プロ野球の世界が近くなる。プロ野球はそういう人の集まり。二刀流で4番を目指す選手が増えてほしい」。大谷に続く選手を育成する。【斎藤直樹】

◆規定打席数、規定投球回数 日米とも規定打席数はチーム試合数×3・1で計算し、小数点以下は四捨五入。162試合制のMLBは502打席、143試合制のNPB(1軍)は443打席。規定投球回数はチーム試合数で、MLBは162回、NPB(1軍)は143回。

◆日本で同一シーズンに投打で規定に到達

過去に16人、30度あり、野口二郎は最多の6度記録。37年春の景浦将、40、46年野口二郎、44年藤本英雄は防御率と打率の両方で10傑入りした。2リーグ制後は50年の野口二郎しかいないが、1リーグ時代に16人いた理由は(1)選手数(2)規定の条件(3)試合数と日程の3点が挙げられる。

プロ野球が始まったばかりの36、37年は選手が少なく、1チームの人数が20人程度。選手間のレベル差もあり、投手と野手を掛け持ちする二刀流が多かった。規定の条件も異なり、現在の規定投球回=チーム試合数、規定打席=チーム試合数×3・1に当てはめると、「16人、30度」が「10人、17度」に減り、50年野口は打撃をクリアできていない。試合数が多くなると同時に選手数も増え、チーム試合数が100以上になってからは40年の清水秀雄と中河美芳、46年呉昌征、40、42、46、50年野口二郎の4人、7度だった。

◆畠山準(はたやま・ひとし)1964年(昭39)6月11日生まれ、徳島県出身。池田から82年ドラフト1位で南海入団。投手として55試合で6勝18敗、防御率4・74。6年目に打者転向。90年限りで自由契約となり、大洋移籍。93~95年にオールスター出場。打者では通算483安打、57本塁打、240打点、打率2割5分5厘。現役時代は180センチ、80キロ。右投げ右打ち。